au Webポータル国際ニュース
〈「パンッ!パンッ!パンッ!」7歳の娘をレイプ殺害した性犯罪者を“法廷で射殺”…前代未聞の事件を起こした『母親のその後』(海外・昭和56年)〉から続く
7歳の娘をレイプ・殺害され、法廷で犯人が有利な展開になった際に、自らの手で射殺したマリアンネ・バッハマイアー。彼女はなぜそのような行動に出たのか? 世間から同情論も集まる中、彼女にくだされた罰とは? 昭和56年に西ドイツで起きた事件の顛末を、我が子を無惨に殺された親、学生時代ひどいイジメに遭った者などが仕返しを果たした国内外の事件を取り上げた新刊『世界で起きた戦慄の復讐劇35』(鉄人社)から一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/最初から読む)
【閲覧注意・・・】「パンッ!パンッ!パンッ!」毛むくじゃらの犯人男とレイプ殺害された7歳少女
娘を殺した男を法廷で射殺した女性 ©getty◆◆◆
法廷で犯人を射殺した「母親の数奇な人生」
事件はマスメディアに大きく取り上げられ、世界中のテレビクルーが事件報道のためにリューベックを訪れた。マリアンネは、約10万ドイツマルク(当時の日本円で約845万円)で、ニュース週刊誌『シュテルン』に自身の半生を記事として売り込み、その報酬で弁護士費用を賄う。そこで取り上げられた彼女の半生は壮絶なものだった。
マリアンネは1950年、西ドイツのニーダーザクセン州ヒルデスハイム近郊の小さな街ザルステットで生まれた。父親はナチス・ドイツの武装親衛隊(SS)の構成員で、典型的な権威主義者。毎晩のように自宅近くのバーで泥酔し、家族を罵倒した。
モラハラが限界に達したところで両親が離婚し、マリアンネは母に引き取られる。が、ほどなく母が再婚した男性も実父に引けを取らない独裁主義者で愛情が注がれなかったばかりか、9歳のときには性的暴行を受ける。
その事実を母親に打ち明けず継父に反抗的な態度を示したことから家庭内で問題児扱いされ、最終的に家から追い出されてしまう。
1966年、16歳のとき交際していたボーイフレンドとの間に女の子を宿し出産したものの、育てられるわけもなく乳児の段階で里子に。さらに2年後、別の男性と関係を持ち妊娠。第2子の女の赤ん坊を出産したが、またも里子に出す。
その直後、マリアンネは顔見知りの男性からレイプ被害を受ける。自ら警察に訴え出て男は逮捕されたが、裁判で下された判決はわずか懲役1年半。短い刑期には裁判所が、マリアンネを身持ちの悪い女性とみなしたことが影響したという。
1972年、当時働いていたバー「ティパサ」のオーナー男性と交際を始め、同年11月14日、男性との間に第3子となるアンナを出産する。マリアンネはオーナーとの結婚を望んだ。
しかし、男性から返ってきたのは予想もしない言葉で「店の料理長と結婚してほしい」という。この料理長はパキスタン人で、ビザの関係でほどなく国外退去となる身だった。オーナーは料理長の腕を買っており、マリアンネと結婚させることで、この問題を解決しようとしたのだ。
彼女のショックは計り知れなかった。当然、何の感情も抱いていない男と結婚する気などなく、シングルマザーとしてアンナを育てることを決める。とはいえ、養育状況は悪く、仕事中に娘をバーに居させて、閉店後は飲酒。
深夜、娘と自宅アパートに戻り、昼間はほとんど寝ていたそうだ。そんな自分を母親失格と思っていたのか、アンナを里子に出すことも考えていたそうだ。
なぜ法廷で犯人を射殺したのか?
しかし、アンナの殺害事件が起き、裁判を傍聴し判決が被告に有利に働きそうな空気を感じたとき、犯人への激しい憎悪に体中が包まれた。そこには、自分が過去に受けてきた性被害と、それに対する司法の甘さへの怒りも含まれていた。そして、法廷内での報復。確信的な犯行だった。ちなみに、後の元友人の証言によれば、アンナが殺害された後、マリアンネはビルの地下室で銃撃のリハーサルをしていたそうだ。
実父が親衛隊員だったこと、最初の2人の子供を里子に出したこと、アンナを放置したことなどが明らかになると「悲劇の母」というイメージは崩れる。が、それでも国民の大半は娘への復讐を果たしたマリアンネに同情を示した。どんな事情があるにせよ、我が子が殺されたら自分も同じ行動を取るだろうと多くの親が考えたのだ。
殺人罪で起訴されたマリアンネの裁判は1982年11月2日から始まった。証言台に立った彼女は犯行動機について「司法がグラボウスキーに対してふさわしい罰を与えると思わなかった。私が自分の手で罪を償わせるしかなかった」と供述。この発言に世間の擁護はさらに高まり、検察は公判途中で殺人罪での起訴を取り下げる。
その後、彼女は…
4ヶ月後の1983年3月2日に裁判所が下した判決は過失致死と銃器の不法所持で懲役6年。弁護人の「彼女はこれまでのトラウマや娘の死を受けて精神が不安定な状態にあり責任能力を問うことは難しい」との主張が全面的に認められた結果だった。さらに3年後の1986年、刑期を3年務めたところで仮釈放。前年の1985年には教師の男性からのプロポーズを獄中で受け入れ人生初の結婚も果たした。
1988年、夫がナイジェリア・ラゴスのドイツ人学校に転勤したことに伴い現地に移住したものの、結婚生活は長く続かず1990年に離婚。その後はイタリアのシチリアに移り、パレルモのホスピスで安楽死の助手として働いていたところ膵臓がんが見つかり、ベルリンの壁崩壊後のドイツに帰国した。1996年8月、死期を悟ったマリアンネは北ドイツ放送(NDP)の知り合いのリポーターに依頼し、自分の密着番組に出演。
改めて、グラボウスキー殺害に一片の悔いがないことを語った。膵臓がんにより病院で息を引き取ったのは、それから1ヶ月後の同年9月17日(享年46)。遺体はリューベックのブルグトール墓地にある娘アンナと同じ墓に埋葬された。
(鉄人ノンフィクション編集部/Webオリジナル(外部転載))
【最後まで読む】「パンッ!パンッ!パンッ!」7歳の娘をレイプ殺害した性犯罪者を“法廷で射殺”…前代未聞の事件を起こした『母親のその後』(海外・昭和56年)