「鼻つまんで、ましな人選べ」 純粋な白票より「ゲーム」に参加を
参院選が7月20日に投開票となった。この人に、と熱い気持ちで臨むのが理想ではあるけれど、なかなかそんな候補者とは出会えないのが現実ではないだろうか。では、白紙投票にするのか。PTA活動などの著書もある、政治学者、岡田憲司・専修大教授はどんなふうに答えてくれるだろう。【聞き手・小国綾子】
無意味な自己表現でしかない
「白票も立派な政治意思の表現だ」と考える人に申し上げたい。
政治や投票は、あなたの「自己表現」の場ではない、と。
白票を投じる人の多くはむしろ政治的意思表明をする気持ちのある人だろう。
政治不信や絶望ゆえ白票に抗議の思いを込める。「日本人が米を食べられないような政治なんてダメ。与野党含め、手を貸してたまるものか。俺の心のけじめとしての白票だっ!」と。
まさに切実で誠実な「自己表現」。しかし、選挙では「今のままの政治で良いです」という意思としてカウントされるだけ。
白票も棄権も沈黙も、すべて同じ。「現状に不満なし」の信任投票とされてしまうのが政治の力学だ。
政治に分かりやすい正答はない
「候補者を知らぬまま投票するのは無責任では」という声を学生のみならず大人からも聞く。それで白票という人もいるだろう。
日本人は小中高校の学校教育のせいで「問いには必ず正解がある。正答に到達すべきだ」という価値観を身体化してしまっている。
しかし政治に分かりやすい正答はない。
分からなさに耐え、不完全な情報の中で選び、失敗しても選び直す。それが政治という人間の営みだ。
応援したい候補者がいないから白票、という人もいる。気持ちは分かる。私も今度の参院選で心底応援したい候補はいない。
しかし一番当選させたくない候補者に不利な投票をするのが肝心だ。
だから私は鼻をつまんででも、よりましな候補者名を書くだろう。
そんな投票は不誠実だって?
いや、純粋な気持ちを優先し、白票を投じれば、最も応援したくない政治家を当選させるのに加担する、という「不純」な結果を招くのが、選挙っても…