熱波の死者50万人時代、人体の限界探る研究者-室温40度で自ら実験台
カナダの研究者グレン・ケニー氏(61)はこの夏、室温を40度に設定したオタワ大学の実験室に3日間こもった。
目的は、猛暑に体がどこまで耐えられるのか調べることだ。カナダで数百人の命を奪った2021年の熱波発生時と同様の室内環境を再現した。実験1日目は平気。しかし、2日目までに深部体温は一時40度近くまで上昇し危険レベルに近づいた。3日目までには体重が約4.5キロ減少した。
極端な暑さが人間の健康に与える影響を何十年も研究してきたケニー氏は、気候変動で世界の気温が上昇する中、そのリスクを把握しようと何度も自らを実験台にしてきた。
「熱ストレスは新しい問題ではない。今はより身近で、私たちの暮らしに関わる問題となっている」と語る。
猛暑が人体に与えかねないダメージと安全を確保する方法を理解するため、自らを実験室に閉じ込めてシミュレーションするのはケニー氏だけではない。世界中の科学者が同様に取り組んでおり、各国・地域の公衆衛生基準の見直しに貢献している。米ユナイテッド航空やドイツのスポーツ用品大手アディダスなどの企業は、製品を改良したり従業員の健康を守ったりする取り組みに成果を活用している。
熱波による年間の死者数は世界で約50万人に達すると、スイスの再保険会社スイス・リーは調査でまとめている。その数は、ハリケーンや地震、洪水による死者の合計を上回っているという。農業やエネルギー供給、労働生産性への影響は直接的に資産評価や企業業績を脅かす。
国際労働機関(ILO)が2019年に発表した報告書は、気温上昇が労働者の作業を鈍化させたり勤務に混乱を与えたりするとし、それによる年間コストが30年までに2兆4000億ドル(約353兆円)に達すると予想した。1995年の2800億ドルから大幅な拡大だ。
日本は今年、最高気温が数日で更新される猛暑に見舞われている。欧州の12都市では、熱波がひどかった1週間の死者数は推計2300人だが、その半数以上が気候変動による気温上昇によるものだと、インペリアル・カレッジ・ロンドンとロンドン大学衛生熱帯医学大学院(LSHTM)の研究者がまとめた。
早稲田大学の細川由梨准教授は熱ストレスへの免疫を持つ人は皆無だとし、脅威は高まっていると話す。科学の新たな進歩が公衆衛生を守る政策の強化や介入につながるとの見方も示した。
熱研究の最前線
カナダの人権委員会で調停人を務め引退したジャネット・スペンサー氏(75)は3月、泊まり込み用のバッグと3日分の食料を持ち込んでオタワ大の実験施設にやって来た。室内温度を26度以下に保つべきだとする同国の公衆衛生上の指針を検証する目的で、38人が交代で参加した。
ツインベッドに冷蔵庫、そしてテレビがある小規模アパートのような空間で過ごしたスペンサー氏は、Netflixを寝落ちするまで視聴したと話した。
暑さに特に弱い高齢者は、発汗による体温調節をうまく行えないことが知られている。ケニー氏の研究室が取り組んでいるのは、その原因を解明して対策を練ることだ。
「秘密兵器」は円筒形のスネレン熱量測定装置。被験者の体から放出された熱を精密に測定することができる。
ある実験では、55-73歳までの30人に室温44度・湿度30%の環境で3時間過ごしてもらった。その結果、19-28歳の同人数のグループよりも2倍近い熱を体にため込み、深部体温も高くなる結果が出た。
深部体温が40度を超え、けいれんの発作や錯乱など神経症状が現れると熱中症と診断される。熱中症は脳や心臓などの臓器にダメージを与えかねず、死の危険もある。
高齢者は発汗量が少ないため、極端な暑さに対して若年層ほど不快感を覚えにくい。ケニー氏の研究室では、血圧調整能力や暑さの感知力の低下が体を動かす力に与える影響についても実験を行っている。
心拍数と血圧を図るセンサーを指先に装着されたスペンサー氏は高温にさらされた後、あおむけの状態から素早く立ち上がるよう指示されたという。 「今のところ実験中に気を失ったことはない。めまいや吐き気は何度か経験している」と語った。
ケニー氏のこれまでの研究では、熱にさらされると年齢に関係なく反応時間が遅くなるほか、集中力が低下し単純な認知作業すら困難になることが分かっている。暑さの中で安全に作業できる時間の長さを雇用主が探るのに参考になりそうだ。
現在のガイドラインは、すべての労働者が同じ熱リスクを持つという前提に立っているが、それは間違いだとケニー氏は指摘。労働者一人一人の耐性に基づいて安全計画を立てるべきだという。
すでにケニー氏の研究成果を取り入れ、従業員が暑さにさらされる環境を調整できるようにしたオンタリオ州のスマートコーン・テクノロジーズのような企業もある。職場の温度を把握し、作業強度に応じて業務を分類した上で、暑さ対策として従業員をタスク間でローテーションさせる。
同社のジェーソン・リー最高経営責任者(CEO)によると、従業員の生体情報監視まで踏み込みたい企業もある。ユナイテッド航空が一例で、同社はスマートコーンのウエアラブル端末を試験運用し、フェニックスのスカイハーバー国際空港の滑走路で働く地上勤務の従業員に暑さが与える負荷などを測定している。広報担当者が電子メールで明らかにした。
バングラデシュの工場を再現
さらにオーストラリアのシドニー大学では、オリー・ジェイ氏が別の研究に取り組んでいる。ポスドク(任期付き博士研究者)時代にケニー氏と研究を共にしていた人物だ。
ジェイ氏はバングラデシュの縫製工場を再現。モデルになるのは首都ダッカで2000人超が働く3階建ての工場だ。同国の基幹産業である縫製業は輸出収入の8割以上を占めるが、エネルギーコストが高いため、工場にはエアコンが設置されていないのが常だ。
気象当局によれば、ダッカは5月上旬に厳しい熱波に見舞われ気温40.1度を記録した。非営利団体クライメート・ライツ・インターナショナルが7月発表の報告書向けに実施した聞き取り調査によると、猛暑の中で労働者は日常的に倒れ、作業の完了にはるかに長い時間がかかることがあるという。
実験には40人以上が参加。バングラデシュで働く労働者と同様、女性は頭部にスカーフ、男性はズボンに半袖シャツという姿で、アイロン掛けや縫製の作業に従事した。
室温40度・湿度38%の環境で6回にわたって3時間の作業を経験した参加者は、心拍数と深部体温の上昇、さらに大量の発汗による水分不足に陥った。
参加した言語療法士のアンジェラ・チェン氏は最初の10分間でその場を離れたくなったという。「唇も肌も乾燥し、全身が暑かった」と語った。
査読段階だが、研究によって分かったのは扇風機の使用や十分な水分補給が体の負担を和らげることだ。さらに屋上への植物の植え付けや断熱性のある反射屋根の設置で室温を2.5度下げられる可能性があることも、豪グリフィス大学との研究で判明した。
扇風機の使用については、当局は長年、気温35度超の環境ではかえって体温を高める恐れがあるとして注意を呼び掛けていた。
しかし、ジェイ氏の研究では湿度が高い場合、気温が高くても扇風機が効果を発揮し得ると判明した。一方、極端に乾燥していて温度が高い場合は、高齢者の深部体温の上昇速度が2倍になることも分かったという。
この知見を踏まえ、世界保健機関(WHO)は昨年、注意喚起の内容を修正。現在は、40度超の環境で扇風機を使用しないように呼び掛けている。
WHOは声明で「この分野で新たな研究に資金が投じられ、われわれの理解や根拠となる基盤の整備が進んだのは、ここ5年のことだ」としている。
テニス界ではすでにこうした研究の成果が活用され、スター選手のカルロス・アルカラス選手やココ・ガウフ選手らが、その恩恵を受けている。
ジェイ氏の研究室から生まれた企業、EMUシステムズは全豪オープンが開かれるアリーナなどに温度や湿度、放射熱を測定するセンサーを設置している。選手の生理データと組み合わせ、熱ストレスが上昇すれば警戒アラートを発出する仕組みだ。冷却タオルの使用や休憩時間の延長などの措置を発動させる。
実際、23年の全豪オープンでは気温が危険なレベルまで上がったため屋外試合をいったん中止。開閉式屋根を閉じて冷房を稼働させるために、屋内試合も一時中断された。
研究の今後
ジェイ氏の研究室は今、将来のリスクにさらなる備えができるよう、一段と厳しい熱波をシミュレーションして人間の限界を検証している。
その結果、気温54度という世界の観測史上最高に近い環境で湿度が26%の場合、人間の深部体温は従来の想定より最大40%速いペースで危険レベルに達することが分かった。血液のpH(ペーハー)も変化し、心拍数も劇的に上昇した。
一方、数日から数週間にわたって体を高温環境にさらすと徐々に慣れてくる「暑熱順化」の研究も進んでいる。発汗量が増えて体の深部および表面温度が下がるため、心臓の負担が和らぐ効果がある現象だ。トップアスリートは長年、取り入れている。
しかし、どれだけの効果を人間は得られるのだろうか。ケニー氏は今週実施のシミュレーションで答えを見つけたいと願っている。6月の実験時と比較して、自分の体が暑さにどれだけ順応するかを確認する予定だ。
「異常気象に立ち向かうなら、それをより良く理解する必要がある」とケニー氏は話した。
原題:Man Shuts Himself in 104F Chamber in Quest to Study Heat Stress(抜粋)