8年前、松山英樹はここで泣いた

◇メジャー第2戦◇全米プロゴルフ選手権 事前(14日)◇クエイルホロークラブ(ノースカロライナ州)◇7626yd(パー71)

8月、シャーロットはうだるような暑さに包まれていた。ホールアウト後のテレビインタビュー。カメラが切り替わる間に、その場にしゃがみ込んだ背中が震える。2017年の「全米プロゴルフ選手権」。あの夏の日、25歳だった松山英樹は今年の会場、クエイルホロークラブで敗れ、人目もはばからず涙した。

2021年に「マスターズ」で勝つ約4年前のシーン。当時の全米プロは、日本の男子ゴルフ界が、そして誰よりも松山本人が挑戦し続けたメジャータイトルに限りなく近づいた試合だった。

世界ランキング3位で入った当地で、予選ラウンドを首位タイで通過。3日目に1打差の2位に後退しても、多くの人が逆転の可能性を疑わなかった。前週の「WGCブリヂストン招待」で、2打差4位から出た最終日に「61」をたたき出す圧巻のゲームを演じたばかり。それからわずか1週間後の日曜日。最終組のひとつ前の組、ジャスティン・トーマスとの2サムに向けられた大歓声は、スタート時の両者に同じだけ響いた。

あの時、一日の終わりを想像し「大変な騒ぎになる」と思った。メジャー初制覇という快挙達成はもちろん、当時の松山にはもうひとつビッグニュースがあった。最終ラウンドの後、その年の1月に結婚していたこと、7月に第1子(長女)が生まれたことが発表されるという情報が舞い込んでいた。

公私にわたる2つの祝福の知らせが、世の中を駆け巡る――。

だが、そのひとつは夢に終わった。今も通訳を務めるロバート・ターナーさんの耳には、サンデーバックナインに入った直後の歓声が今も残る。「10番でジャスティンのバーディパットが(最後のひと転がりで)コロンとカップに入った。嫌な感じがした」。まだリードしていた松山の内心も「ジャスティンの味方が一気に増えたように思った」と同じだった。

直後の後半11番から悪夢の3連続ボギー。トップの座を明け渡すどころか13番(パー3)終了時にトーマスに3打差をつけられた。14番から2連続バーディを奪い返して追いすがったが、上がり3ホールの難所“グリーンマイル”で2ボギー。願いは届かず、5位に終わった。

8年後の今年、クエイルホローのメディアセンターではトーマスの優勝シーンが繰り返し放送され、そのたびに白いポロシャツ姿の松山の背中が映る。グリーン上で勝者をたたえ、笑顔で握手を交わした時、涙はどこまでこみ上げていたのだろう。

涙腺が崩壊した瞬間について、松山は後日、「“杉さん”に優しい言葉をかけられて…。一生懸命こらえていたのに」と笑って明かした。3局目のテレビのインタビュアーを務めた杉澤伸章さんは、どう声をかけたか今は覚えがないという。それでも「松山選手はそれまで張りつめていたものが切れたような、緊張感が解けたような表情をしたんです」と、生気が失われていく眼が忘れられない。

松山は「負けたこと、覚えています。あれからもう8年ですからね、(時間が経つのは)早い」と言った。「思い出しても何の意味もない」とも口にしたが、激闘の様子はあの時、現地にいなかった人々の胸も強く打った。

「このコースで松山さんが優勝争いしたのをテレビで見ていました。僕にはその時の印象がすごく強いです」。今回初めてクエイルホロークラブを訪れた久常涼は当時、まだ15歳だった。金谷拓実は東北福祉大の1年生。ゴルフ部の合宿で「ちょうどスタート前に、朝食会場でみんなでテレビの前にいました」と振り返る。「それまで、(日本人で)メジャーを勝てるかもしれないという選手なんていなかった。あの時の学生はみんな刺激を受けたんです」

時は過ぎ、松山は念願のメジャータイトルを手にして同じ舞台に帰ってきた。流した涙が後の成功につながったことは疑いようがない。どれだけ時間が過ぎても、ずっと色あせない敗戦がある。(ノースカロライナ州シャーロット/桂川洋一)

桂川洋一(かつらがわよういち) プロフィール

1980年生まれ。生まれは岐阜。育ちは兵庫、東京、千葉。2011年にスポーツ新聞社を経てGDO入社。ふくらはぎが太いのは自慢でもなんでもないコンプレックス。出張の毎日ながら旅行用の歯磨き粉を最後まで使った試しがない。ツイッター: @yktrgw

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