落合博満に星野仙一が激怒「あの1回だけだった」現場にいた中日選手が初証言「今だから言うけど…」星野監督の初優勝シーズン、鈴木孝政も怒鳴られていた
落合博満に星野仙一が激怒「あの1回だけだった」現場にいた中日選手が初証言「今だから言うけど…」星野監督の初優勝シーズン、鈴木孝政も怒鳴られていた photograph by Kazuhito Yamada
落合博満には躊躇する青年指揮官も、現役時代はチームメイトだったベテラン・鈴木孝政には容赦なかった。星野仙一監督1年目の87年、先発で勝ち星を積み重ねた33歳の孝政は、オールスターにも出場。9勝目以降に足踏みするも、10月6日の阪神戦(甲子園)で、2桁勝利のチャンスが巡ってくる。その時、事件が起こった。
星野の“嫉妬”「あからさまだな…」
「4回まで0封なのに、交代を言い渡された。池田(英俊)コーチに『なんでですか!』と詰め寄りましたよ。でも、『監督も球団も10勝を認めるから』と言うだけ。5回から(小松)辰雄が投げたから、最多勝を取らせるためだとわかった。シーズン前、星野さんに『10勝したら監督賞を出す』と言われていて、宿舎に帰ったら100万円もらいましたけど、納得できなかった。9勝は9勝だもん」
火種は燻り続けた。シーズン最終戦、孝政は大量リードの6回からマウンドに上がる。最後まで投げ切れば、大台の通算100セーブにあと3つと迫れる好機だった。しかし、星野は6点リードの9回、抑えの郭源治をマウンドに送った。
孝政:ちょっと待ってください。 星野:なんだ? 孝政:100セーブがあるんです。こんなチャンス、滅多にないから行かせてください。 星野:ダメだ!!
「17年の現役生活で、監督へのお願いはその1回だけ。郭にセーブは付かない場面だし、普通は続投させてくれるんですけどね。今だから言うけど、男のジェラシーだと思う。あからさまだなと。立場が逆だったら、きっと暴れてるでしょ(笑)」
当時、100勝100セーブは江夏豊、山本和行、斉藤明夫のみの大記録。孝政と同じく先発も抑えも経験した星野は、偉業間近の後輩を快く思わなかったのだろうか。
「自分の現役時代を知ってる選手って、やりづらいと思いますよ。星野さんに限らず、監督という職業はね。今はちょっと変わってきてますけど」
「勝利投手なのに…」激怒された日
青年指揮官は前年の牛島和彦、上川誠二に続き、87年オフには大島康徳、平野謙という82年の優勝メンバーを放出した。トレードこそ免れたものの、孝政もチームの片隅に追いやられていく。
88年、星野の監督2年目シーズン。開幕から郭源治につなぐ“中抑え”として活躍していた孝政は5月29日のヤクルト戦(新潟)、試合前のブルペンで今季初先発を言い渡される。7回2失点で勝利投手になると、久々に記者陣に囲まれた。
「球団史上初めて新潟で勝ったのもあって、取材が結構長くなっちゃったの。地方球場だと、ヒーローはタクシーで帰るんです。でも、その日はバスが待っていた」
広報の催促で、初めて事情を知った孝政は小走りでバスに向かった。窓越しにナインを見ると、表情が強張っている。異変を感じたベテランがドアを開けた瞬間、怒声が響いた。
「いつまで喋っとるんじゃ!!」
星野は苛立っていた。デーゲームを終えた中日はすぐに東京へ移動し、翌々日の巨人戦に備えようとしていた。
「敗戦投手以下の気持ちになりましたよ。静まり返ったバスの中で、監督の横の補助席に座って、ずっと縮こまっていた(笑)」
原因は定かではないが、以降の登板数は激減する。5月まで13試合に投げていたが、6月2試合、7月3試合、8月3試合に。夏場になると、ルーキーの上原晃が郭源治の前を任され、居場所が失われていった。
星野が落合に激怒「その1回だけ」
この年、チームは開幕から波に乗れずにいた。最大の原因は、落合の不振だった。5月末で打率.260、7本塁打の主砲は6月1日からゲーリーに4番を譲り、実質5年ぶりの3番に入った。ある日の巨人戦で、落合がチャンスに凡退して敗戦。試合後の反省会で、星野は烈火のごとく怒りをぶちまけた。
「オチ!! お前が打たないとこうなるんだ!!!」
部屋のガラス窓が割れんばかりの一喝だった。就任2年目で、三冠王へ初めての激怒だった。
「やっと言ってくれた……みたいな感じでした。選手の空気に勘付いて、いつか言わなきゃいけないと考えていたんでしょう。自分の知る限り、落合さんへの叱責はその1回だけだったと思います」
孝政も怒られた…テーブル蹴飛ばして
ベテランの孝政も全員の前で叱られた。怪我の状態が良くなった主砲の復調とともに、チームは上昇気流に乗り、8月31日に落合のサヨナラ3ランでマジック25を点灯させる。3日後、東京ドームの巨人戦で、孝政は2カ月半ぶりの先発マウンドに上がった。
しかし、原辰徳、有田修三にホームランを浴び、2回途中でノックアウト。宿舎の『サテライトホテル後楽園』でミーティングが始まると、怒りに満ちた星野が椅子に座りながら、詰問した。
星野:孝政、何を考えて投げたんだ? 孝政:5回までゲームを作ろうと必死に投げました。 星野:……1回、1回、1人、1人じゃねえのか!!!
その瞬間、星野は目の前のテーブルを蹴飛ばした。倒れた机の車輪の残響は、後方に座っていた孝政の耳にも響き渡った。
「ビックリしましたよ。ベテランを締めれば、みんなに言わなくてもいいと考えたんでしょうね。星野さんは、その日のうちに怒りを収めるんですよ。次の日会っても普通で、さっぱりしている。ネチネチしていない」
翌日、中日は彦野利勝の満塁弾などで、巨人に引導を渡した。優勝が見えてきた段階での激昂は、チームを引き締める狙いがあったのかもしれない。
「仙さんは7つ怒っても、3つ必ず持ち上げる。怒るのも簡単じゃないだろうけど、3つ褒めるって難しいと思うよ。だから、選手から嫌われないの。俺はあんまり褒められなかったけど(笑)。まあ、ベテランだったからね」
「監督が呼んでいます」日本シリーズ後に…
常々、「選手はいい着地をしなきゃダメだ」と言っていた星野はマジック1で迎えたヤクルト戦、11対3と大量リードの8回に孝政をマウンドに送る。
「点差が開いてなければ、出番はなかったでしょう。池山(隆寛)と広沢(克己)という良い打者に投げさせてくれた。でも、(自分を)辞めさせたいのかなという気もしましたけどね」
西武との日本シリーズでは登録されたが、ベンチにすら入れない。1勝3敗で迎えた第5戦、西武球場での練習後に立川のホテルに戻った孝政は、伊東勤のサヨナラ打をテレビで見届けた。名古屋に戻る新幹線のビュッフェでやけ酒を呷っていると、マネージャーから「監督が呼んでいます」と声を掛けられた。
横に座っても、星野は何も話さない。孝政も一言も発しない。痺れを切らした星野がようやく切り出した。
星野:……どうするんや。 孝政:もう1年やらせてください。 星野:そうか。来年はお前の好きなようにやっていい。
「親分にね、そう言われる悲しさってないですよ。(星野の決めた)ルールに従って、みんなと一緒に行動してきた。縛られて生活するのが、いかに楽かとわかりましたよ」
その時、チームで事件が…
孝政にとって、星野仙一はあくまで「仙さん」だった。面と向かって「監督」とは言えず、いつも名前を呼ばずに場を凌いでいた。しかし、2年という時間が「親分」と「子分」という距離を生んでいた。就任から「ワシは監督じゃ!!」と振る舞う星野の掌握術が、2人の関係性に変化をもたらしていた。
「次の年、一軍は初めて(豪州の)ゴールドコーストでキャンプをした。俺は呼ばれないと思っていたの。そしたら、メンバー表に丸がついていた。『あ、連れて行ってもらえるんだ』と。今まで『俺が選ばれないわけないだろ』と考えていたのに。これは、もうダメだなと」
孝政に“引退”の二文字が浮かんだ頃、星野と落合の確執がスポーツ紙を賑わせていた。
〈つづく〉
文=岡野誠
photograph by Kazuhito Yamada