「怪物・江川卓を攻略せよ」なぜ広島商は作新学院に勝てたのか?「じつは首を寝違えて…」江川が達川光男に言った「お前には1球も全力で投げてない」(Number Web)|dメニューニュース

「怪物・江川卓を攻略せよ」なぜ広島商は作新学院に勝てたのか?「じつは首を寝違えて…」江川が達川光男に言った「お前には1球も全力で投げてない」 photograph by JIJI PRESS

およそ半世紀前の1973年、作新学院の江川卓(当時17歳)が初めて甲子園のマウンドに上がった。ボールをバットに当てることすら困難な規格外のピッチング――「攻略不可能」と思われていた怪物投手は、なぜ準決勝で広島商に敗れたのか? 関係者の証言から、「江川が負けた日」の内幕を掘り下げていく。(全2回の2回目/前編へ)※文中敬称略

「このゲーム、お前らの勝ちだ」

 広島商監督の迫田穆成(よしあき)は「ストライクゾーンの上半分は捨てて、5回までに100球投げさせろ」と選手に指示した。作新学院の江川卓は珍しく制球が定まらない。広島商は2回に3四球を選んでいる。

 5回に1点を先行されたが、その裏、左投げ右打ちの佃が詰まりながらも右翼線にチーム初安打を落とし、すぐに追いついた。

 前年秋の新チーム結成以来、江川が続けていた連続無失点記録が139イニングで止まった瞬間だった。

 5回が終わり、部長の畠山圭司が「江川の球数104球」と告げた。

「よし、このゲーム、お前らの勝ちだ」。迫田が選手に暗示をかけるように言った。

 試合は1対1のまま8回に。先頭の金光興二が自身3個目の四球で出塁して二塁盗塁を決める。楠原基がチーム2本目の内野安打で1死一、二塁。

 迫田が勝負に出る。ベンチから送ったサインは重盗、ダブルスチールだ。

 金光がスタートを切る。捕手から三塁への送球が高くそれる。金光が一気に本塁へ返り、これが決勝点となった。

 江川と金光は卒業後、法政大学でチームメートになる。「走るのはわかっていた。捕手に『投げるな!』と言ったんだけどなあ」と江川は金光にこぼしている。

「江川対策」として練習を重ねた秘策は、日の目を見ることはなかった。しかし、広島商が5度目の全国制覇を果たす同年夏に、この練習が生かされる。日田林工(大分)を下した3回戦。2回1死満塁から、広島商は2ランスクイズで逆転する。守備側のスキを突き、三塁走者に続いて二塁走者も一気に生還するプレーは、「江川対策の応用じゃった」と迫田は胸を張る。

「2点目のホームインを、NHKの中継カメラが追えてないんじゃ。なにが起きたか、分からんかったんじゃろ」。豪快に笑った迫田の顔が懐かしい。

「雨にやられた」江川卓が明かした“敗因”

 さらに後日談がある。

「怪物」のデビュー戦を甲子園球場の外野席で観戦した西村欣也は、のちに報知新聞社に入社し、江川が入団した巨人の担当記者となった。

「入団をめぐる『空白の1日』があったこともあり、江川もマスコミを遠ざけようとしていたけど、根は明るくて頭がいい男だからさ。遠征先へ移動する新幹線の食堂車なんかで、いろんな話をした」

 江川が引退した後、朝日新聞社に移籍した西村はぼくの先輩記者となり、当時の話をしてくれた。2018年に夏の全国高校野球選手権大会が第100回を迎えるに当たって長期連載した高校野球名勝負物語「あの夏」では、西村が江川、ぼくがその他の関係者を取材し、第55回大会(1973年)の2回戦、銚子商(千葉)対作新学院の裏側を物語として描いた。

 西村は親交が深い江川に朝日新聞東京本社まで来てもらい、編集局内のテレビに当時の映像を流しながら取材している。その際、選抜大会の裏話についても聞いている。

 作新学院と広島商が激突した準決勝は雨で順延になった。すでに3試合を投げている江川にとっても佃正樹にとっても、恵みの雨になると思われた。

 ところが、江川は「雨にやられたと思いましたね」と西村に打ち明け、秘めたエピソードを語り始めた。

 すでに江川はメディア攻勢にさらされていた。宿舎の電話は鳴りっぱなしで、部屋まで上がってきた記者もいたという。そのあたりは、ぼくも当時の監督だった山本理(おさむ)から聞いている。「センバツを機に大変なことになった。ああなると、チームは壊れちゃうね」と打ち明けられた。

 江川はこのとき、隠し部屋のようなところへ避難したそうだ。そこにソファがあった。その上でウトウトしたという。「その時、首を寝違えたのよ」。翌日の準決勝は、その痛みを抱えたまま、マウンドに上がっていた。

達川光男には「1球も全力で投げてない」

 その点については、広島商の捕手だった達川光男も語っている。

「ワシら何とか勝ったんじゃが、あいつは首を寝違えとって調子が悪かったらしいんよ」

「それに、プロ入りしてから、お前には1球も全力で投げてないって言われたよ」

 夏の100回大会を記念して2018年に朝日新聞で企画した「世代トーク」で、同世代の大野豊と対談してもらった時に語ってくれた。ぼくは同僚と、その対談を取材した。

 達川は「秋の中国大会が終わって、『栃木にすごいのがおる』と監督に訳の分からん練習をさせられた」と、迫田の秘策についても触れている。無死または1死二、三塁からスクイズを失敗するという作戦だ。

「監督は『下手に当てたらフライになってゲッツーになるから、空振りせい』と。三塁走者が挟まれてタッチアウトになる間に、二塁走者が追い越す作戦ですよ」

 ちなみに、夏の日田林工戦で、その応用である2ランスクイズを成功させたことには触れたが、このとき、二塁から一気に生還した走者が達川である。

 この対談企画では、毎回最後に、自分たちの世代に名前を付けてもらった。

「僕らは『江川世代』だね」と達川は言った。

「たくさん良い投手がおって、捕手も豊作。江川のおかげだと思う。『江川を打ち崩さない限り、日本一にはなれん』が合言葉で、それまでサボることしか考えてなかったけど、ノルマより500回余分にバットを振ったりした」

 1955年生まれで、異論がある野球人はいないだろう。

<前編とあわせてお読みください>

文=安藤嘉浩

photograph by JIJI PRESS

関連記事: