5歳で連れ去られた少女、30年ぶりの再会は「夢のようだった」
ボートに押し込まれた5歳の少女は、岸に残る父や母の姿を必死に追った。泣き叫んでも距離は広がるばかりだった。
そのとき、兵士が少女の頭を海に沈めた。「これで忘れるだろう」。痛みと恐怖で体が硬直し、少女は意識を失った。
家族と再会できたのは、それから30年後のことだった。
<主な内容> ・連れ去られた少女のその後
・「母の名前すら忘れていた」
インドネシア占領下の東ティモール(1975~99年)では、4000人以上の子どもが家族から引き離され、各地に連れ去られた。いまも行方がわからない人が多数いる。
「盗まれた子どもたち」と呼ばれる彼らの一人が、現在ジャカルタで夫や2人の息子と暮らすニーナ・ピントさん(51)だ。
79年。村に現れたインドネシア兵は両親に告げた。「この子を連れて行く。邪魔すれば皆殺しにする」
両親は海岸まで追いすがったが、小さな娘を守るすべはなかった。
「お父さんのことを忘れないでくれ」。父の叫ぶ声が、幼い記憶に残った。
名前も宗教も奪われた日々
兵士はニーナさんの名前と宗教を変え、自らの妻子と同居させた。
午前3時に起こされ、洗濯、掃除、皿洗いをこなす。学校には通ったが、放課後にはアイスキャンディーを売り歩いた。売れなければ夕食はなかった。性暴力も受けた。
「憎まないように努めてきたけれど、今でも怒りがこみ上げる時がある」。語るうち、涙がほおを伝った。
故郷について話すことは禁じられ、両親の記憶は少しずつ薄れていった。
高校卒業後に家を飛び出し、働きながら家庭を築いたが、「いつか家族に会いたい」という思いは消えなかった。
父の執念と長い捜索
2009年、親族が突然訪ねてきた。「ずっとあなたのことを捜していた」
その10年以上前から、父は娘の行方を追っていた。残された手がかりは、連れ去った兵士の名前だけ。軍関係者を訪ね歩き、集めたわずかな情報をつなぎ合わせた。
記事の後半では、母との再会の瞬間や、同じ境遇の子どもたちを再び家族につなぐために奮闘するニーナさんの活動、資金や人手の制約が続く現場の様子をお伝えします。
ジャワ島中部の大学へ進…