オウム真理教の地下鉄サリン事件・高橋シズヱさん 松本智津夫元死刑囚らの裁判傍聴459回 : 読売新聞
オウム真理教が1995年3月20日に起こした地下鉄サリン事件で、高橋シズヱさん(78)は、営団地下鉄(現・東京メトロ)霞ヶ関駅の助役だった夫・ 一正(かずまさ) さん(当時50歳)を亡くした。平穏な暮らしを奪われ、被害者・遺族の代表として奔走した歩みを振り返った。(中村俊平)
事件を振り返る「地下鉄サリン事件被害者の会」代表世話人の高橋シズヱさん(2025年1月22日、東京都千代田区で)=須藤菜々子撮影あの日、パートで働いていた東京・浅草の銀行で、地下鉄で何か大きな事件があったようだと知りました。「日比谷線で爆発事故」みたいな話もあり、最初は、夫と同じく営団職員として働いていた長男のことを心配しました。長男は六本木駅に勤めていたためです。
高橋一正さん(妻のシズヱさん提供)銀行の副支店長が出してくれた車で、上野にある営団地下鉄の本社に向かいました。本社にあるテレビに、ちょうど1人の営団職員が担架で搬送される様子が映っていました。姿を見てすぐに主人だとわかりました。「あれ、主人です」と声を出した記憶があります。
大急ぎで搬送先の日比谷病院に向かうと、病院はものすごい数の人であふれていて大混乱状態。副支店長が周りに聞き回ってくれなければ、私は主人が運び込まれた8階の個室までたどりつけなかったでしょう。
個室に入ると、ベッドの脇のソファに制服を着たままの長男がうつむいて座っていました。ふと目をやると、主人はベッドに横たわり、タオルケットをかけられていました。「えっ」と驚き、絶句しました。
搬送されただけで、まさか死んでしまったとは思ってもみなかったから。主人に触れた時のあの冷たさは今も忘れられません。手を握っても、握り返してくれませんでした。
――シズヱさんと一正さんは1971年に結婚。仲の良い夫婦で、第二の人生に思いを巡らせている時期でもあった。
事件当時は、ちょうど一番下の3番目の子どもが高校を卒業した年の春休みでした。子どももほぼ自立していて、夫婦で買い物に行ったりご飯を食べに行ったりすることも多かったです。2人とも外出が好きで、5月には夫婦で北海道に旅行する計画も立てていました。
そりゃあ、けんかもしましたよ。ただ、私が主人の姉の家に軽い家出をしても、主人が迎えにきてくれて、すぐに仲直りをしました。
将来のこともよく話し合っていました。主人は料理が好きで、定年退職した後は自分のお店を開いてみたいという思いもあったみたいです。私は「旅行に出られなくなるから嫌だ」と反対したのですが。地方でゆっくり暮らす構想もありました。楽しい時間でしたね。
「地下鉄サリン事件30年」特集はこちら 地下鉄サリン事件30年 ~3・20 あの朝、何が~ オウム真理教とは~凶行に走らせたもの~ 証言 あの日の記憶からPage 2
――シズヱさんは96年1月に発足した「地下鉄サリン事件被害者の会」の代表世話人に就任。被害者や遺族の先頭に立って、取材対応や国との交渉などに忙殺されることになる。
地下鉄サリン事件から28年を迎え、霞ヶ関駅の献花台に花を手向けた高橋シズヱさん(2023年3月20日)事件直後は、メディアの取材に朝から晩まで訳も分からず答える毎日で、正直、悲しんでいる余裕もありませんでした。被害者として何をすればいいのか、相談できる人もいないし、誰も教えてくれない。
ある記者から「事件を起こしたオウム真理教に損害賠償を求めて裁判を起こさないのか」と聞かれても、「何それ?」という感じでした。
95年6月頃、弁護士が「オウム被害110番」を開設したので、すぐに電話をかけました。その後、民事訴訟を起こす被害者と遺族の相談会で「地下鉄サリン事件被害者の会」をつくることになり、私はあまり深く考えることなく、代表世話人になってしまったんです。
――まもなく、地下鉄サリン事件の実行犯や教祖・麻原彰晃こと松本智津夫元死刑囚らの刑事裁判が始まった。当時、被害者や遺族は刑事手続きの「蚊帳の外」に置かれ、傍聴席の用意もなかった。
私を含め、多くの被害者や遺族は「オウム」裁判を見たいと希望していました。事件がなぜ起きたのかを知りたかったからです。
でも、法廷に入るためには、一般の人とともに抽選の長い列に並ぶしかなくて、「おかしい」と思いました。主人にも裁判を見せたいと思って遺影を持ち込もうとしたら、入り口で止められ、荷物と一緒に預けさせられたこともありました。
それまでも私と同じように悔しい思いをしていた被害者がいたのでしょうが、裁判所から「ダメ」と言われてあきらめていたのだと思います。私も1人だけならそうだったでしょう。
でも、大きな被害が出た事件だったために、被害者や遺族らが素朴に「変だな」「おかしい」と思うことを口に出すと、弁護団がそれをすくいあげ、訴える場や機会を作ってくれました。とてもありがたかったですね。
――シズヱさんら多くの犯罪被害者の声も受け、2000年、被害者の優先傍聴や法廷での意見陳述を認める「犯罪被害者保護関連法」が成立した。
霞ヶ関駅構内には、犠牲者を追悼するプレートが掲げられている。「的確な判断により 多くの乗客の命を守り殉職した高橋一正 菱沼恒夫両氏の安全輸送に懸けた功績をたたえ 我々営団地下鉄職員の誇りとしてここに記す」と刻まれている私はこれまで「オウム」の裁判を計459回傍聴してきました。東京地裁の法廷で被告本人を見て、被告が言っていることを直接聞くことの意義は大きいと思います。被告の泣き方一つでも違いがありますし、謝罪するときの態度を見て、真に反省をしているのか見極めることができます。
ある教団幹部の被告が公判中にしょっちゅう時計を見ていたり、別の被告がにやけていたりするのはとても嫌な感じがしました。
一方、地下鉄サリン事件の実行犯・林郁夫受刑者(無期懲役確定)は正直に話そうとしているのが伝わりました。元医師の林受刑者が、なんで「オウム」なんかに入ってしまったのか、とても不思議で無性に悔しく思いました。
――地下鉄サリン、松本サリン、坂本堤弁護士一家殺害など13事件で、殺人罪などに問われた松本元死刑囚。1996年4月の初公判以後、不規則な言動を繰り返すなど、真相を話さなかった。
松本元死刑囚は初公判の人定質問で職業を問われた際に、「オウム真理教の主宰です」と話しました。にもかかわらず、その責任をまったく果たそうとせず、法廷でひどくみっともない態度をとり続けました。
なんでこんな男に多くの人がついていったのか、いまだに理解ができません。事実がどうだったのかを知りたいという被害者や遺族の切実な思いを裏切り続けました。
途中からは「もうそういう人なんだろう」「期待しても無駄だろう」という気持ちがわいてきました。10年近く裁判をやっても結局しゃべらず、あきらめました。
――松本元死刑囚は2004年2月、一連の事件の首謀者として、死刑判決を受けた。弁護側が控訴趣意書を期限内に提出しなかったため、東京高裁は06年3月、控訴棄却を決定し、同年9月に最高裁で死刑が確定した。18年7月に刑が執行された。
松本元死刑囚は凶悪なテロを起こして、多くの人の人生を狂わせました。あれだけ多くの審理を経て、裁判官が死刑判決を出したわけですから、その執行も至極当然のことです。
「もっとしゃべらせるべきだった」「死刑執行は尚早だ」という人もいますが、そうは思いません。
多くの弟子たちが裁判でいろんな証言をし、教団の成り立ちや事件のプロセス、なぜ入信してしまったのかなど、おおむね理解ができました。松本元死刑囚がしゃべろうがしゃべるまいが、私にとってはそれで十分です。
――サリンの被害者は、体のしびれなどの後遺症や、フラッシュバックなどに苦しむ人も多かった。だが、国からの補償は十分ではなかった。
地下鉄サリン事件から4年を迎え、プレートの前で黙とうをささげる営団地下鉄職員ら(1999年3月20日、霞ヶ関駅で)サリンの被害は目に見えません。一見すると普通の人と変わらないために、心身に受けた被害の大きさが家族にもなかなか理解してもらえません。今も手足のしびれや痛み、頭痛などに苦しんでいる人がいます。
会社からリストラされそうになったり、サリンの後遺症で仕事をやめざるを得ず、経済的に苦しくなったりする被害者も多かったです。偏見を恐れて、表だって被害の実情を訴えられずにいる人もいましたが、国からの補償は十分ではありませんでした。
被害者の会では、手記を発行したり、シンポジウムを企画したりして、被害者の苦境を発信することに力を入れました。
――犯罪被害者支援のあり方について知識を深めた。
被害者から私に相談が寄せられることもありましたが、最初はどのように接したら良いのかわからない時もありました。
私自身、しっかり犯罪被害者支援について勉強をしないといけないなと思って、00年に犯罪被害者支援の先進地でもある米国での研修に参加しました。
米国では、犯罪被害者が孤立しないように、被害者同士が交流できる環境をつくることや、被害者自身がメディアも活用しながら情報発信をしていく大切さを学びました。
被害者が「おかしい」と思うことに対してもっと声を上げて、みんなで改善していくことができればいいと思うようになりました。
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