三浦雄一郎、要介護4経て3度目の冒険人生でモンブラン滑降目指す…山は限界に挑戦する最高の場所 : 読売新聞
一時代を築いた芸能人や文化人、スポーツ選手らの足跡をたどります。
[LEGEND]プロスキーヤー、冒険家 三浦雄一郎 92
週5日、札幌市内の自宅マンションなどで約1時間運動し、その後は30分ほどマッサージを受ける。運動のメニューは歩行訓練や階段の上り下りなど。2020年6月、首の後ろにできた腫瘍が脊髄を圧迫する「特発性 頸髄(けいずい) 硬膜外血腫」を発症し、一時は要介護4で寝たきり状態になった。だが、長い入院生活とリハビリを経て、山に向き合う生活に戻った。
富士山の山頂に到着した三浦雄一郎さんとサポートする登山隊メンバー(2023年8月31日)=早坂洋祐撮影病気の影響で復帰後も手足にしびれなどは残っているが、90歳だった23年8月、山岳用車いすを使うなどして家族や登山仲間とともに富士山の山頂に到達した。「3度目の冒険家人生」を歩んでいる。
スキーで時速170キロ・エベレストから滑走
プロスキーヤーとして若い時から世界を股にかけて活躍した。1964年、山を直滑降で下って速度を競うスピードスキー「キロメーターランセ」で時速170キロ超を記録。66年にはパラシュートをブレーキ用に使って富士山を直滑降で下ると、70年にはエベレストの標高約8000メートルから滑り降り、世界最高地点からスキー滑降のギネス記録に認定された。
この時は世界的にも注目され、記録映画がアカデミー賞を受賞した。「富士山の滑降がそれより高いエベレスト(の滑降)に 繋(つな) がっている。危ないのは当然だが山を滑っている時は怖いという感覚はまったくなくなってしまう。無我夢中」。屈託のない表情で当時を振り返る。
85年、世界7大陸最高峰からのスキー滑降という偉業を成し遂げた。「山は人間の限界にチャレンジする最高の場所。面白い」。怖いもの知らずに果敢に挑み続けたのが、最初の冒険家人生だった。
次男のモーグル選手にも刺激され「第2の冒険人生」へ
その後一時は不摂生な生活を送ったというが、著名な山岳スキーヤーで高齢になってもなお山に向かっていた父の敬三や、スキー・モーグルで活躍する次男の豪太らの姿に刺激を受け、新たな目標に向けて歩みを進めることを決めた。第二の冒険家人生では加齢と戦いながら、エベレストに挑んだ。
リハビリを経て、90歳代で「3度目の冒険家人生」に挑戦中の三浦雄一郎さん(2月27日、札幌市中央区で)=古厩正樹撮影2003年、豪太らとのチームでエベレスト登頂に成功。70歳7か月での到達は当時の世界最高齢記録で、親子での達成は日本人では初めてだったという。その後も、75、80歳の節目の年齢で登頂した。
「エベレストは上に行けば行くほど空気が薄いし、風は強い。そして(寒暖差の激しい)温度と、全てが楽しくて苦しい。世界で最高の厳しさを持った山だが、そこに80歳でも登れたことで『達成したんだ』という気持ちでいっぱいになった」
第3の冒険人生、始まりは聖火リレー挑戦
大病を患ったのは日本国内でも新型コロナウイルスが感染拡大し、東京五輪・パラリンピックの1年延期が決まった後だった。ベッドに寝たきりの状態から必死にリハビリに取り組んでいた頃、聖火リレーへの参加が可能かどうかを尋ねる連絡があった。
大会延期前に元々ランナーを務める予定だったが、リレーも1年延期となっていた。舞台は思い出が詰まった富士山五合目で、リレーの距離は150メートル。だがその頃、まだ10メートルほどしか体を動かせなかった。
三浦雄一郎の足跡「150メートルを歩くことはエベレスト登頂と同じくらい自分にとって大変なこと。だからこれをやり遂げようと思った」。これが3度目の冒険家人生のスタートとなる。
振り返れば、20歳代の頃には五輪出場の夢がかなわず、それが前例のないプロのスキーヤーとして様々なことに挑戦する原動力になった。2019年には南米最高峰アコンカグアに挑んだが、頂上を目前にしながらも体調不良のため断念する悔しさも味わった。挫折や失敗、困難を味わいながら、常にそれを前に進むエネルギーに変えていた。
23年、富士山頂に到達し、雲海をのぞんだ後に思った。これからも自分らしく生き生きと過ごしていければ――。
モンブランの氷河滑降が次の目標
「先の話だけれど、仏アルプスのモンブランの『バレーブランシュ』をスキーで滑降することを次は目指したい」。大きな氷河で知られ、当時99歳だった敬三と一緒に滑った場所でもある。今回は自分が95歳になるまでに滑ることを目指している。昨年4月に八甲田山系で山岳スキーにチャレンジしたり、札幌の自宅近くのスキー場で滑ったり。頂上に一歩一歩、着実に進む登山と同様、力強くその目標に向かっている。(敬称略、運動部 畔川吉永)
年々たくましさ増す
昨年、三浦が八甲田山系のコースを約5時間かけて滑った時には、豪太がロープでサポートする格好でのスキーだった。
故郷の八甲田山系で山岳スキーに挑戦する三浦雄一郎さん(2024年4月11日、青森市で)豪太による補助は、三浦のスピードが出過ぎた際に制御することが目的だが、この時はスピードを抑える場面があまりなく、豪太によると、三浦はほとんど自力で滑っているような状態だったという。
また、父の様々な活動を支えている長女・恵美里も、スキーを再開した3年ほど前から三浦の動きに年々、たくましさが増していると感じている。ターンで板をコントロールする際などの体の使い方が力強くなり、持久力も以前に比べてついているとみる。
「一度体が『ゼロ』の状態になったが、そこからまた、少しずつ戻ってきている。一昨年より昨年、昨年より今年と本当にわずかですが確実に上がってきている」と恵美里は言う。
三浦自身も、身近にいる家族が自分のパフォーマンス向上の原動力になっている、と実感している。特にエベレスト登山の成功は「90%以上は豪太と彼を含めたチームのおかげ」と感謝する。偉業を次々と成し遂げる三浦の冒険家人生に欠くことはできない人たちだ。