女子中学生の「置き配盗難」が暴く日本社会の不信構造――他人を信じられない社会で、置き配は成立するのか?(Merkmal)|dメニューニュース

社会的信頼の劣化

 兵庫県姫路市で、玄関先に「置き配」されていた韓国のりを中学3年の少女が盗む事件が起きた。少女は「中身に興味があって気になったので持ち出しました」「袋を開けて韓国のりだったのでハズレだと思った」「(私は韓国のりが好きではないので)友達にあげました」と供述している(MBSニュース)。

 この事件は一見、未成年による軽微な窃盗事件のようにも映るが、日本における社会心理学研究の第一人者で、北海道大学名誉教授の山岸俊男氏(1948〜2018年)の理論、

・安心社会・信頼社会

の視点から見ると、もっと根深い社会構造の問題が浮かび上がってくる。

 社会心理学とは、人間が他者と関わるなかで、どのように考え、感じ、行動するのかを科学的に明らかにしようとする心理学の一分野だ。人と人との関係に焦点をあて、個人の思考や感情、ふるまいが、他者や集団の影響を受けてどのように変化するかを扱う。

山岸俊男「安心社会から信頼社会へ:日本型システムの行方」(画像:中央公論新社)

協力を生む制裁と淘汰の論理

 山岸氏は、生前、日本社会の秩序のあり方を「安心社会」と「信頼社会」という対照的な概念で描き出した。

「安心社会」とは、長期的な人間関係、内部ネットワーク、文化的な均質性に基づいて秩序を保つ社会である。他方、「信頼社会」は、匿名性の高い短期的な関係においても、相手の信頼性を的確に見極める社会的知性によって協力が成立する社会である。

 この両者の違いは、社会的協力の根幹にある

「囚人のジレンマ」

という状況への対応の違いとしても説明できる。囚人のジレンマとは、本来は互いに協力した方が両者にとって利益が大きいにもかかわらず、相手を信用できないために互いに非協力を選び、結果として損をするというジレンマ状況のことを指す。社会における信頼や協力の形成は、このジレンマをいかに克服するかにかかっている。

「安心社会」は、この囚人のジレンマに対して「裏切れば排除される」という長期的な関係性に基づく制裁の仕組みで協力を促す。一方、「信頼社会」は、相手の行動を短期的な接触でも的確に見極める「社会的知性」によって非協力的な相手を自然と淘汰することで、持続的な協力を実現する。

置き配イメージ(画像:写真AC)

制度と文化の摩擦構造

 両社会の違いは、以下のように体系的に整理できる。

●安心社会・秩序の基盤:長期的関係・内部的ネットワーク・典型例:日本(終身雇用、系列取引、村社会的構造)・市場構造:閉鎖的な内部市場・価値観:均質性の重視、和の維持・コスト構造:取引費用は低いが機会費用は高い

・失敗のリスク:内部に忠実な者が報われるが、外部適応力に欠ける

●信頼社会・秩序の基盤:短期的関係でも信頼できる相手を見極める能力(社会的知性)・典型例:米国(多文化・流動的市場、職業倫理)・市場構造:開放的で流動的な外部市場・価値観:異質性の容認と活用、誠実さの評価・コスト構造:取引費用は高いが機会費用は低い

・失敗のリスク:信頼に失敗するリスクがあるが、変化に柔軟に対応できる

 置き配は典型的な「信頼社会」的制度である。配送員と受取人のあいだに長期的な関係はない。代わりに、「誰であれ、他人でも信頼できる」という社会的前提のうえに成立している。荷物が盗まれないことは、社会全体の信頼水準の反映でもある。

 だが、現在の日本社会は「安心社会」と「信頼社会」の中間にある。かつての「安心社会」的制度──終身雇用、系列取引、職人的技能の伝承──は急速に衰退しつつある一方、「信頼社会」的な「他者評価の指標」や「名声の共有基準」はいまだ発展していない。そのため、外部の他人との信頼関係を築く訓練を十分に受けていない人々が多く、結果として制度と文化のあいだに深いミスマッチが生じている。

 今回の事件で、少女は「他人の所有物」としての境界認識が薄かった。そこには、「安心社会」的秩序が崩れながらも、新しい信頼の倫理が根づいていない現状が露呈している。盗んではいけない、という単純な道徳の問題ではない。社会がどのような人間関係の土台で成り立っているか、それにどれだけ無自覚かが問われている。

置き配イメージ(画像:写真AC)

中ぶらりん国家の競争力低下

 このような事件を受けて、

「置き配をやめるべきだ」「不在票に戻せ」

といった声が上がることは想像に難くない。しかし、それは単に「安心社会」的統制への退行にすぎず、制度の利便性を損なうだけでなく、日本社会の競争力をさらに削ぐ恐れもある。

 むしろ必要なのは、「信頼社会」的な制度を支えるインフラの構築である。例えば、以下のような取り組みが考えられる。

・レピュテーション(評判、信用)制度の導入:置き配の安全度やトラブル件数など、地域単位での信頼度を可視化し、行動に対する社会的評価が蓄積される仕組みをつくる。・社会的知性の教育:学校教育において、相手の信頼性を判断する力や信頼される振る舞いとは何かを明示的に教える。

・地域型中間拠点の整備:他者との信頼が前提となる制度では、配送と受取をつなぐ顔の見える中間地点を設け、信頼関係を緩やかに支える。

 加えて、日本社会に欠けているのは、信頼の評価基準としての名声や誠実性に対する共有された信念である。山岸氏は、職業倫理に基づいた行動が他者からの信頼を獲得し、それが再び機会と報酬を生むという「信頼の経済」を支える循環を重視していた。これは欧米では企業や専門職の間で共有されているが、日本ではいまだに

・上司への忠誠・空気を読む協調

が、信頼の指標であるかのように機能してしまっている。ここに、「信頼社会」への移行を阻む深い断絶がある。

 日本社会は「安心社会」としての制度的基盤を喪失しつつあるにもかかわらず、「信頼社会」に必要な社会的知性や評価制度が整備されていない。現在の日本は、どちらの社会モデルにも十分に適応できていない「中ぶらりん」の状態にある。その結果として、組織不祥事や倫理破綻が繰り返され、社会的不信が蓄積している。

 今回の置き配事件も、そうした構造的背景のなかで起きたものであり、単なる治安対策や教育指導の問題として片づけるべきではない。制度と文化、技術と倫理のあいだの齟齬が、社会のあちこちで軋みとして現れている。

置き配イメージ(画像:写真AC)

米国信頼社会の合理性

 山岸氏は、日本人の多くが「まず疑ってかかる」傾向が強いことを指摘していた。それが「信頼社会」の形成を妨げている原因だと述べていた。一方で、米国のような「信頼社会」では、

「まず信じてみて、間違っていれば訂正する」

という姿勢が主流になっている。この違いは、文化的な価値観によるものではない。それぞれの社会で、何が合理的とされるか。その行動様式の違いにすぎない。要は、環境への適応の違いである。

 だからこそ、変わるべきなのは人びとの性格ではない。制度と環境のほうだ。信頼できる行動が報われ、裏切りが可視化され、速やかに淘汰されるような仕組みを整える必要がある。そのうえで、子どもたちが

「信頼されるとはどういうことか」「信頼するとは何か」

を経験を通じて学べる場を用意すべきだ。置き配という小さな制度をきっかけに、社会の未来を形づくる現実的な一歩を踏み出すことができる。

 置き配は、日本社会にとっての試金石である。安心の終焉と、信頼の未成熟。そのはざまで、私たちはどんな社会を築けるのか。山岸俊男氏の遺した問いは、いまもなお、玄関先に置かれた小さな荷物の隣に、静かに横たわっている。

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