ローマ教皇はどう選ばれるのか、選挙「コンクラーベ」の舞台裏
2013年のコンクラーベでは、5回の投票の結果、教皇フランシスコが選出された。コンクラーベの歴史は13世紀まで、教皇自体の歴史はイエス・キリストの時代までさかのぼることができる。(Photograph by Peter Macdiarmid, Getty Images)
2013年にローマ教皇ベネディクト16世が退位したとき、「地上における次の神の代理人」がカトリック信者たちに明かされるまで、2週間という長い時間が必要だった。(参考記事:「バチカンは変わるか? ローマ教皇の挑戦」)
バチカンのサン・ピエトロ広場に集まった人々は、投票用紙を燃やす白い煙を目にすると、歓喜の声を上げた。白い煙は枢機卿(すうききょう)団の投票によって新教皇が選ばれた証であり、複雑な教皇の選出手続きの最後の手順だ。こういった伝統は、イエス・キリストの時代までさかのぼるとも言われている。
3月20日公開の映画『教皇選挙』には、この神聖で神秘的な儀式を行う際に繰り広げられるドラマが描かれている。架空の教皇の死後に起きたできごとを題材にしたこの作品は、2025年のアカデミー賞で脚色賞を受賞した。しかし、その描写はどこまで歴史に忠実なのだろうか。バチカンでもっとも神秘的で由緒ある手続きの背後にある真実に迫ってみることにしよう。
ギャラリー:ローマ教皇はどのように選ぶのか、選挙「コンクラーベ」の舞台裏 写真7点(写真クリックでギャラリーページへ)
2013年3月13日、サン・ピエトロ広場に集まる人々。サン・ピエトロ大聖堂のバルコニーに現れた新教皇は、アルゼンチン出身のホルヘ・ベルゴリオだった。(Photograph by ANDREAS SOLARO, AFP/Getty Images)
もともと、ローマ教皇はローマ司教と呼ばれ、カトリック教会によると、最初にその立場に就いたのは聖ペトロ(イエスの12使徒の一人)だった。この説では、ペトロはキリストからこの立場を授けられ(ペトロがローマ司教の座に就いたのは紀元30年とされる)、その後代々の教皇に受け継がれてきた。
キリスト教徒たちは、子が親に払うような尊敬を込めて、ペトロを「パパ」というラテン語で呼んだ。かつて、キリスト教国の教会で広く使われていた称号だ。この「パパ」が教皇を表す英語の「ポープ」の語源となったわけだが、当初、この言葉はローマ司教だけを指すものではなかった。
しかし6世紀ごろになると、ローマの司教と、教会の最高指導者たる教皇の権威が同一視されるようになる。その結果、ローマの司教はほかの司教よりも高い立場だと見なされるようになった。
なぜ今のような継承の仕組みが生まれたのか?
11世紀までは、教皇の選出に民意、それも聖職者と信者の両方の意志が反映されていた。もちろん、意見が一致することはほとんどなく、選出が紛糾したり、正当ではないが力のある人物が、「対立教皇」として教皇の座を主張する事態になったりした。
1059年、教皇ニコラウス2世が教令を発し、今後の教皇を選ぶ手続きを司教枢機卿による選挙にする、と明文化した。ニコラウス2世自身にも対立教皇がいたことからも、当時の教皇の継承が争いと切っても切れないものだったことがわかる。この1059年の教令により、ローマの貴族や低位聖職者たちの影響力が弱まり、1150年の枢機卿団の設立につながった。