量子基準系が迫る「重ね合わせ」と「量子もつれ」の再定義
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駅のホームに立って、トロッコが通過していくのを見ているとしよう。トロッコに乗った女の子が、真っ赤なボールを落とす。女の子から見ると、ボールはまっすぐ下に落ちる。だが、ホームに立つあなたからは、ボールは弧を描いてからトロッコの床に落ちるように見える。このとき、女の子はトロッコに固定され、あなたは駅のホームに固定されて、同じ事象を異なる基準系で観測しているのだ。
基準系という概念は、古典物理学の世界で長い歴史をもつ。アイザック・ニュートンからガリレオ、アルバート・アインシュタインまで、みなそれを土台にして運動の研究を進めた。基準系とは、それ自体が動く可能性のある座標系(「原点」となるゼロ点を基準にして、位置と時間を特定する方法)と考えればよい。アインシュタインは、基準系を利用して相対性理論を展開し、時間と空間は宇宙に対して固定されているのではなく、伸びたり縮んだり歪んだりする可塑性をもつ存在であることを明らかにした。
だが、量子物理学はこれまで、基準系をほぼ視野に入れてこなかった。量子物理学の実験の解説には、架空の観測者、アリスとボブがたびたび登場するが、このふたりは物理的に異なる場所にいるのが普通で、それでも共通の基準系に固定されていると想定される。
それがいま、変わりつつある。アリスがいる基準系(上の例で言うとトロッコやホームに当たる)が同時に複数の位置である可能性があることに、あるいはボブが時間の測定に使っている時計は量子論的な不確定性の影響を受ける可能性があることに、量子物理学者は気づき始めたのだ。
量子論のパラドックス解決に挑む
「量子の世界では、量子論の形式で基準系を記述する必要があります」。そう語るのは、スイス連邦工科大学チューリッヒ校の理論物理学者、レナート・レンナーだ。
2024年の論文で、チャスラヴ・ブルクナーなど、ウィーン大学および量子光学・量子情報研究所(Institute for Quantum Optics and Quantum Information、IQOQI)の物理学者が、長年にわたって研究されてきた量子現象、つまり重ね合わせや量子もつれなどに関して、量子基準系が新しい展望を開くということを示した。その知見を受けてレンナーは、量子論の思考実験で発生する奇妙なパラドックスの一部についても、量子基準系が解決の糸口になるのではないかと考えている。
ウィーン大学の物理学者であり、量子光学・量子情報研究所の部門長を務めるチャスラヴ・ブルクナー。最近発表した数々の論文で、量子基準系を探究している。
ブルクナーらは、量子基準系のロジックを通して考えれば、量子重力理論をめぐる新たな洞察につながる可能性があると期待する。量子重力理論とは、重力をほかの基本的な相互作用と同じ理論の枠に収めようとする研究である。
量子基準系というこの新しい試みについて、レンナーは「何かとてつもなく大きなことの端緒についたばかりです」と話している。
「重ね合わせ」「もつれ」の捉え直し
量子基準系という概念が初めて提唱されたのは1984年だが、2019年ごろに複数のグループがその概念を再評価したことが、近年の研究の隆盛につながった。この量子基準系をめぐる活発な議論は、わたしたちにふたつの典型的な量子の特性の捉え方の見直しを迫っている。その特性とは、ひとつは重ね合わせ、すなわち物体が同時に複数の状態を取る可能性があること、もうひとつは量子もつれ、すなわち別個の粒子が単一の量子状態を共有し、その一方を観測すると他方の状態が瞬時に決まることである。
(左から)ウィーン大学および量子光学・量子情報研究所のルカ・アパドゥラ、アン=カトリーヌ・デ・ラ・ハメット、ヴィクトリア・カベル。どの量子系がもつれ状態や重ね合わせ状態になるように見えるかは、基準系の選択によって影響を受けるということを共同研究で示した。
この議論を理解するために、ふたつの基準系を想定し、それぞれをA、Bとする。仮に、Aの基準となる原点が複数の位置に存在する可能性がある量子物体に固定されているとしよう。Bの視点から見ると、Aの位置は一定の領域にぼんやり拡がって見える。しかし、Aの視点から見ると、Bまでの距離のほうがぼやけて拡がっている。あたかも、Bが重ね合わせ状態にあるように見えるということだ。