「息子は必ずあそこにいる」 90歳の父は今も、その帰りを待つ

行方不明の長男・利行さんの帰りを待ち続ける吉田税さん。震災後に再整備された古川沼沿いを歩き「息子がここにいるような気がするんだ」と話した=岩手県陸前高田市で2025年2月8日、北山夏帆撮影

 14年が過ぎても、家族の帰りを待つ人たちがいる。大津波は大切な家族を奪い、何一つ返してはくれなかった。90歳を迎えた父親は長男を捜し続け、ある場所の捜索を求めてきた。「息子は必ず、あそこにいる」。自分に残された時間は長くないと分かっているが、諦めることはできない。

憩いの水辺が一転

 岩手県陸前高田市の広田湾岸に、広さ約9万平方メートルにも及ぶ県内最大の湖沼「古川沼」がある。ワカサギ釣りに水泳大会。多くの市民が思い出を持つ、憩いの場所だ。

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 すぐ横には、かつて7万本の松が並んだ景勝地・高田松原があった。そんな水辺の景色を一変させたのは、2011年3月11日の東日本大震災だった。

岩手県陸前高田市にある古川沼周辺の地図

 市内には18メートル近い津波が押し寄せ、高田松原は「奇跡の一本松」を残して消失。古川沼と広田湾を隔てていた砂州も流失し、沼と海が完全につながった。

 沼には、損壊した家屋の建材や家財道具、自動車などが大量に流れ込んだ。

 陸前高田では岩手県内最多の1600人以上が犠牲になり、200人余りが今も行方不明。「沼には不明者の手掛かりがあるはずだ」。市民がそう考えたのは自然な流れだった。

高齢者を助け、行方不明に

 吉田税(ちから)さん(90)は、古川沼の徹底した捜索を求め続けてきた。長男・利行さんは、市中心部で津波に流されたとみられるが、今も見つかっていない。

東日本大震災による津波で大きな被害を受けた岩手県陸前高田市の市街地=陸前高田市で2011年3月12日、本社機から貝塚太一撮影

 震災当時43歳で、市内の商工団体で事務局長を務めていた。あの日は、古川沼から北に1キロほど離れた市民会館で、団体が主催した集会を終えた後だった。

 地震後の足取りははっきりしないが、市民会館の北隣にあった市役所で、利行さんがお年寄りを抱えたり背負ったりして階段を駆け上がっていたという証言がある。市役所は3階まで浸水したが、屋上に逃げた人は間一髪で難を逃れた。

 利行さんに救われたという高齢者は「あんな若い人が被災して(年長の)私が助かるなんて」と吉田さんの前で泣き続けた。

 息子には幼い頃から「困っている人は助けないといけない」と教えてきた。「てんでん(各自で)逃げれば良かったんだが……。俺が悪いんだ」。吉田さんはそう自分を責め続けている。

心の中で生きている

 利行さんは高度成長期のまっただ中だった1967年、3人きょうだいの末っ子として生まれた。

 幼い頃からやんちゃで、小学校の頃は教室の机の上を跳びはねるように歩き回った。あだ名は「棟梁(とうりょう)」。子どもたちのリーダー的存在だった。

行方不明のままになっている吉田利行さん(家族提供)

 運動も得意で、幼い頃から野球に親しんだ。高校卒業後は岩手県北部の機械工場に就職。よく働き、よく稼いだ。ベンツに乗って帰省し、家族を驚かせたこともある。

 しかし生まれつき右耳が聞こえづらく、工場の機械音を気にしてか20代半ばで帰郷した。商工団体で働く傍ら、地元の中学校で野球部のコーチも務めた。

 「俺の心の中では、今も生きているんだ」。活発で優しかった息子のことを、片時も忘れたことはない。

徹底的に捜して

 震災発生時、吉田さんは既に70代半ばだったが、翌日から手掛かりを求め、地元の学校などを訪ね歩いた。家族や知人と避難所や遺体安置所をいくつも回ったが、見つからなかった。

 「捜索してけろ」。当時の市役所から海側に1キロしか離れていない古川沼にいるのではと、市に何度も掛け合った。

 震災から1年後、利行さんのかばんが発見されたことを機に死亡届を出したが、何とか見つけたいという思いは変わらなかった。

 時間がたつにつれ、古川沼の周辺はさまざまな復旧工事が進んだ。流入したがれきの撤去や、新しい防潮堤の造設。「工事より捜索を優先してほしい」。何度も現場に足を運んで求めたが、かなわなかった。

 沼の底をさらうような本格的な捜索がないまま工事が進めば、利行さんにつながる手掛かりが失われてしまう。日に日に危機感が募った。

 15年夏には、沼に接する広田湾で引き揚げられた乗用車から遺体が見つかった。別人だったが、「徹底的に捜してほしい」という思いは更に強まった。

行方不明者の捜索のため、古川沼に入るボランティアのダイバーら=岩手県陸前高田市で2013年7月27日午前10時4分、小川昌宏撮影

「あそこが息子の墓場だ」

 吉田さんは16年1月、徹底捜索を求める署名活動を長女(63)と始めた。80歳を超えていたが「捜索が尽くされないと気持ちの整理がつかない」と寒風の下で協力を呼び掛けた。

 開始から1カ月あまりで2万8000筆以上が寄せられ、市に提出。市議会にも、警察や海上保安庁に徹底捜索を働き掛けるよう求める請願を出し、全会一致で採択された。

 岩手県警と海保のダイバーらが沼に潜って捜索したが、手掛かりは得られなかった。

 古川沼周辺の復旧工事は21年末に終了し、震災前に近い形状に修復された。広田湾とつながっていた沼も砂州が再生し、かつての姿を取り戻した。

 水を抜いて沼の底を確認するなど、吉田さんが望んだ捜索は実現しなかった。今も「古川沼は息子の墓場だ。あの中にいると確信している」。

 県警によると、古川沼と周辺の捜索は21年6月までに16回実施したが、行方不明者につながるものは見つかっていない。

 震災による不明者は、岩手、宮城など6県で2520人(3月1日時点)に上る。岩手県警は「今後も住民の意向などを基に捜索を続けていく」としている。

復旧した古川沼(中央)の一帯は震災後、高田松原津波復興祈念公園として整備された=岩手県陸前高田市で2025年2月3日午後1時43分、本社機「希望」から玉城達郎撮影

「おやじも頑張れ」

 吉田さんの家は祖父の代から続く農家。5年前には、利行さんの次男(28)が農業を継ごうと、会社を辞めて帰郷した。

 「最近は、本格的に米を育てたいと言ってきた。簡単じゃないぞと言ってやった」。孫について語る吉田さんはうれしそうだ。

 それでも、息子への思いが薄れることはない。自宅の浴室は、風呂好きだった利行さんが疲れを癒やした場所だ。湯船に身を沈めるたび、その面影をじんわりと思い出す。

 震災後は一度だけ、夢に出てきた。「俺は元気だ。おやじも頑張れ」。そう言って去っていった。

 「あの世にいけば、もしかしたら会えるのかな」。卒寿を迎えてもかくしゃくとした吉田さんだが、年齢を意識した言葉がつい口をつく。

変わりゆく風景

行方不明の長男・利行さんの帰りを待ち続ける吉田税さん=岩手県陸前高田市で2025年2月8日、北山夏帆撮影

 澄んだ青空が広がった2月上旬、吉田さんは久しぶりに古川沼のほとりに立った。岸辺も沼の水もきれいになり、震災を思い起こさせるものはない。

 望んできた徹底捜索を実現するには、整然と復旧した一帯をまた崩す必要がありそうだ。「ここまで整備されると、難しいかもしれないな」

 もう一回、きちんと捜してほしい――。長く抱いてきた願いに変わりはない。しかし時の移ろいと変わりゆく風景が、老いを自覚する父の胸にさざ波を立てる。【奥田伸一】

取材を終えて

 「ピカピカですね」。東日本大震災から復興した町を初めて訪れた大学生がそう語ったという。昨夏、取材で知り合った人から教えてもらった。

 学生がそう思うのも無理はない。古川沼がある陸前高田市をはじめ被災地には今、真新しい戸建て住宅や店舗、計画的に整備された道路が広がる。震災の痕跡を見つけるのは至難の業だ。

 一方、震災前から暮らす住民は心の中にさまざまな思いを押し込めている。その最たる人が行方不明者の家族だと思う。

 「悲しみは一緒だが、遺体が見つかれば少しずつ気持ちの整理がつく。見つからないままだと、心残りが消えない」。遺族であり、行方不明者の家族でもある女性は、心境の違いをこう語った。

 東日本大震災は、津波による被害が甚大で、他の自然災害に比べ行方不明者が圧倒的に多い。道路や建物の復旧はほぼ終わったが、不明者家族の心は今も揺れ続けている。取材には力を尽くしたつもりだが、子を待つ親の機微を本当に感じ取れたのか、自問自答を続けている。

※この記事は、毎日新聞とYahoo!ニュースによる共同連携企画です。

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