「明日会おう」を最後に消えた独裁者 アサド政権崩壊、元首相が証言
半世紀以上にわたって独裁体制を敷き、昨年12月に崩壊したシリアのアサド政権で、最後の首相を務めたムハンマド・ジャラリ氏(56)が25日、毎日新聞の単独インタビューに応じた。
ジャラリ氏は政権崩壊前後の緊迫した状況を証言。反体制派が首都に迫る中、アサド前大統領が政権崩壊の可能性を認識していなかったことを「驚いた」と振り返り、ロシアに亡命したことについても「大きな権力を持っていたが、責任を果たさなかった」と非難した。
Advertisementジャラリ氏が日本メディアの取材に応じるのは初めて。
シリアでは昨年11月27日、シャラア暫定大統領が率いる反体制派「ハヤト・タハリール・シャム」(HTS)が北西部イドリブ県から大規模攻勢を開始。12月8日にダマスカスを制圧した。首都にとどまったジャラリ氏は8日未明、独断でビデオ声明を出し、「スムーズな権力移行に協力する」と表明。これを見たシャラア氏から連絡を受け、平和裏に権力移譲が実現した。
ジャラリ氏によると、アサド政権下では治安問題はアサド氏や軍、情報機関など一部の幹部が取り仕切っていた。大規模攻勢が始まってからも状況は変わらず、アサド氏からの指示はなかった。
政権崩壊の3日前にはアサド氏から「行政改革について協議したい」と言われ、大統領府の役人が首相官邸に来た。だが、一言も攻勢の話は出ず、驚いたという。
アサド氏と最後に話したのは、政権崩壊前夜の12月7日。午後11時ごろに大統領府に直通電話をかけて指示をあおいだ。
ところが、アサド氏から逆に「我々はどうすればいいと思うか?」と質問され、戸惑ったという。
結局、アサド氏は「明日会おう」と言って電話を切った。それがアサド氏と交わした最後の会話となった。
同じころ、ラフムーン内相(当時)がテレビで「ダマスカス郊外で軍が強固な防衛線を引いている。誰も防御を破れない」と表明した。ジャラリ氏が電話すると、ラフムーン氏は「本当は状況は良くない。だが(国民には)言えないだろう」と打ち明けた。
反体制派は8日未明に首都に到達し、政府庁舎を次々と支配下に置いた。軍は大半の兵士が離散しており、大規模な戦闘は起こらなかった。
午前3時ごろ、ジャラリ氏はラフムーン氏から「すべて終わった。私はタルトス(シリア北西部)に逃げる」と言われた。これを受け、再び大統領府に電話したが、今度は誰も出なかった。アサド氏の携帯番号も知らず、連絡の取りようがなかったという。
独断で声明を出すと決めたのはこのときだ。長女(26)にスマホで撮影してもらい、「国民が選ぶどのような指導者とも協力する用意がある」と呼びかけた。「正直に言うと、自分や家族を守りたかった。それから、公的機関で働く何十万人の人たちや、私が選んだ閣僚の安全も守りたかった」
動画の声明をフェイスブックに投稿すると、多くのメディアが内容を報じ始めた。
HTSから接触を受けたのは、8日午前9時ごろ。交流サイト(SNS)を通じて「声明を確認した」とのメッセージが届き、シャラア氏から電話が来た。丁寧な言葉遣いで「午後にダマスカスに着く。平和的な権力の移行について話し合いたい」と言われたという。翌9日には首相官邸でシャラア氏と面会し、暫定政権発足に向けた準備が始まった。
ジャラリ氏は首都にとどまった理由について「英雄になりたいわけではなかった。だが、私には国民に対する責任があった」と語り、亡命したアサド氏は「裁かれるべきだ」と訴えた。
ジャラリ氏は大学教員などを経て14~16年、アサド政権下で通信技術相を務めた。一度は政権を離れたが、24年9月に首相に就任。約3カ月後に政権が崩壊した。現在は大学教授を務めている。【ダマスカス金子淳】