東日本大震災後、避難者を迎え入れた石巻の旅館 山暮らしの知恵で乗り越えた共同生活
PHPオンライン編集部
2026年03月09日 公開
写真:北上町の震災関連の写真を集めた写真集『北上川河口物語』より。避難所になった中学校の体育館
東日本大震災から、まもなく15年。あのときの衝撃は、多くの人の心に今も深く刻まれているのではないでしょうか。
災害と隣り合わせにある日本では、経験者の記憶を語り継ぐことも大切な防災の一つかもしれません。
今回は、震災当時中学3年生で、現在は地元・石巻市で家族とともに追分温泉という旅館を営む横山恵美さんに、震災直後の暮らしについて振り返っていただきました。
※前編・中編・後編の中編です
横山さん一家が営む旅館は避難所に
追分温泉で避難所の対応にあたる、横山さんのご両親
東日本大震災の直後から、横山恵美さんの自宅である旅館・追分温泉は、帰宅困難となった人たちの避難場所となりました。
「震災が起きたのは金曜日で、週末のお客さんを迎えるために食材を多めに用意していました。そのおかげで、数日間はそこにいるみんなで鍋を囲むことができたんです。電気は止まりましたが、ガスはプロパンガス、水は自家水道だったので、生活に必要な最低限のものは確保できていました。お米もガス炊飯器で炊くことができました。
前年、父がたまたま宮城県沖地震に備えようと石油ストーブを新調していたんです。そのおかげで、暖を取ることもできました」
さらに、周囲に残っていた雪を冷蔵庫に詰めて食材の保存に活用したり、初代から旅館で使っていたランプを照明代わりに使ったりと、知恵を絞りながら何とか日々をしのいでいたといいます。
5月になると、旅館は自治体の申請が通り、二次避難所として補助金が下りるようになりました。そして、最後の被災者が旅館を後にする10月末まで、避難所として寝食を提供し続けました。
被災地に漂う“深く聞かない”空気
旅館の窓に貼った、支援物資とともに届いたメッセージ
また、地域の人に向けて、入浴の支援も行っていたといいます。
「3月23日に自衛隊から自家発電機が支給されました。うちは沸かし湯の旅館なので、お湯を沸かす必要があって。
発電機で効率よくお湯を沸かせるようになったことで、入浴支援も始めました。近隣の避難所にいる人たちが、自衛隊の車で代わる代わるお風呂に入りに来ていたんです。
そのとき、少し気を遣ったことがありました。多くの避難所では学校の体育館で雑魚寝をしていたと思います。でも、うちは旅館なので、避難している方は畳の上に布団を敷いて寝ていました。仕方のないこととはいえ、どこか申し訳なさを感じていて。だから、布団を敷いている大広間の襖を閉めるなど、できるだけ他所から来る方の目に入らないようにしていました」
同じ被災地でも状況はさまざまで、互いに配慮しながら人と関わっていたと横山さんは振り返ります。
「お風呂に入りに来た方がたまたま知人で、再会を喜ぶ瞬間もありました。『ああ、生きてた』と涙を流す人もいました。でも、津波で家族を失ったり、家が倒壊したりと、抱えているものはそれぞれで。だから、『旦那さんは?』『お子さんは?』といったことを深く聞かない空気が、ずっとありました。
後になって、『○○さんが亡くなったらしい』と噂で知ることも多かったですね。あの頃は、とにかく"いまを生きる"ことに必死で、それ以上の余裕はなかったんだと思います」
15年前、テレビで繰り返し流れていた津波の映像。いまも強く記憶に残っている人は多いかもしれません。しかし横山さんは、被災地にいた人ほど、その映像に見覚えがないのではないかと話します。
「当時はテレビがつかなかったので、映像で津波を見ることがなかったんです。
それに自分の目で見る被害の現場と、空撮の映像で見る景色はまったく別物ですよね。県外に住む親戚や知人から『大丈夫?』と連絡がきて、そこで初めて広範囲にわたる被害状況を知ったという人も少なくなかったと思います」
避難している人との共同生活
人探しで訪ねてきた人に向けて、旅館に避難していた人の名簿を貼り出した。
震災直後は、目の前の出来事を一つひとつ受け止め、対応するだけで精いっぱいだったと横山さんはいいます。高校生活が5月に始まるまでのあいだ、ほとんどを自宅である旅館で過ごしていたそうです。
「高校が1カ月半遅れで始まると聞いたとき、『早い』と感じたのが正直なところでした。中学校はさらに早く再開すると聞いて、教育は止められないものなんだと実感したのを覚えています。
震災の影響で学校の統廃合も進みました。校舎が津波で流されてしまった学校は、近隣の無事だった学校の校庭に仮設校舎を建てて、授業を再開していました。
それから、印象に残っているのは、父が避難所対応の疲労で倒れたときのことです。付き添いで久しぶりに山を下り、病院に入ると、一面に並べられたベッドの間を医師や看護師が慌ただしく行き交っていました。その光景はいまも忘れられません」
仮設住宅への入居が進むにつれ、旅館に身を寄せていた人の数は徐々に減っていき、5月には世帯ごとに客室で寝泊まりできるようになったといいます。
避難者たちは、日中は家の片付けや行方不明になった家族を探すために山を下り、日が暮れるころになると再び旅館へ戻り、決められた時間に食事をとっていました。
横山さん一家は、旅館が家のように落ち着ける場所であってほしいとの思いから、外出する人がいたら「いってらっしゃい」「おかえりなさい」と言葉をかけていたそうです。
また、利用者とのあいだで大きなトラブルはなかったと、横山さんは振り返ります。その背景には、水やガスを問題なく使える環境があったことも関係しているのかもしれません。
「追分温泉を一から造った曾祖父は、山奥の電気も通っていない場所に水を引き、自力で整えていきました。苦労は多かったと思います。私自身も、通学のたびに坂を上り下りしなければならず大変でした。でも、いざ災害が起きてみると、そうした"不便さ"に支えられていたのかもしれません」
(取材・構成・執筆:PHPオンライン編集部 片平奈々子)