あの井上尚弥が伏兵カルデナスに…現地ラスベガスで記者が見た“信じられない光景”「KOで終わらせないと…」じつは試合2日前にあった“激闘の伏線”(Number Web)
2回が間もなく終わろうとしていた。初回、落ち着いた動きを見せた井上は2回にグッとペースを上げ、理想に掲げた「しっかりとボクシングを見せた上で中盤にノックアウト」というシナリオに向かって突き進んでいるかに見えた。 ところが次の瞬間、眼の前で信じられないシーンが起きた。井上が力なくキャンバスに沈んだのだ。カルデナスが井上の左フックを外し、リターンした左フックがきれいに顔面をとらえていた。 会場は騒然となった。それはそうだろう。詰めかけた観客の多くがモンスターのKOショーを観に来ていたのだ。5月5日のメキシコ戦勝記念日「シンコ・デ・マヨ」に合わせてアメリカ国内で毎年行われるビッグイベントは、通常はメキシコ人選手が主役を務める。この日はセミにWBOフェザー級王者のメキシカン、ラファエル・エスピノサが出場。カルデナスはメキシコ系米国人であり、井上は「当日はアウェーの雰囲気になるかもしれない」と話していたものである。 ところが実際は、井上の、井上による、井上のためのイベントだった。ラスベガスの街中には、いたるところに「怪物」と漢字を使ってデザインされたデジタル看板が目についた。会場内に設けられたモンスターグッズ売り場には長蛇の列ができ、アリーナの大スクリーンに井上が来場するライブ映像が流れると、喝采が沸き起こった。
井上にとってアメリカの大会場でメインイベンターを務めるのは初めての経験である。2017年9月、WBOスーパーフライ級王座の防衛戦でカリフォルニアのイベントに出場した際は世界的なスター選手ではなく、当然ながらメインイベンターではなかった。バンタム級王者となった20年10月、21年6月にはラスベガスで試合をしたものの、コロナ禍の制限が残るイベントであり、決して「ビッグ」ではなかった。 今回はアメリカの大手プロモーション、トップランク社が井上をアメリカに招きたいというたっての希望で実現した試合だった。アメリカのファンが、メディアがモンスターを待ち望んでいたのだ。象徴的なシーンを試合2日前の記者会見で見た。 会見場に現れたのはかつて「怪物」と呼ばれたルーベン・オリバレス。1960年代から70年代にかけて日本人選手とも多く対戦し、バンタム級とフェザー級で世界を制したレジェンドである。そのオリバレスが所用でメキシコからロサンゼルスに来た際、ラスベガスで井上の試合があると知ると「ぜひ会いたい」と言い出したという。78歳の元王者は井上に会うためだけに車でラスベガス入りをし、井上とツーショット写真に収まり、満足して翌日メキシコに帰っていった。 ほかにもマルコ・アントニオ・バレラ、フェルナンド・バルガスといった往年の名選手がうれしそうに井上と肩を組んでいる姿が印象的だった。ひと昔前まで、海外のVIPが現役日本人ボクサーをどれだけ知っていただろう。井上は認知されているのみならず、ツーショット写真を自慢したくなるような、レジェンドたちが一目置く存在だったのである。
井上自身、アメリカでの受け止められ方について「期待をものすごく感じているし、そういったところも一つ一つ対応していきたい」と十分に意識していた。できるだけファンにサインをする姿からは、アメリカでもスターとして立派に振る舞わなければいけない、という強い意思を感じさせた。 そして試合への決意をこう述べた。「今回はKOで終わらせないといけない試合だと思っている」。アメリカでメインイベンターを務める意味、そして相手が無名のカルデナスということを考えれば、期待されているものは明白だったのである。 <続く>
(「ボクシング拳坤一擲」渋谷淳 = 文)