「忘れない、立ち止まらない」 岩手・大船渡の地元紙、東海新報が見つめた15年

東海新報社長、鈴木英里氏(本人提供)

僚紙「夕刊フジ」は昨年1月末日をもって休刊した。残念の一つに継続していた連載の終了がある。特に岩手県大船渡市を拠点とする地元紙「東海新報」の記者が毎年3月と9月に書く集中連載には毎回、肺腑(はいふ)をえぐられるような読後感があった。「忘れない、立ち止まらない」は、連載の表題である。

その筆者、現在は3代目社長の鈴木英里さんは「さらば、夕刊フジ」と題した寄稿に「書きたいことはいっこうに尽きなかった。本当に驚くほど尽きなかった」と記した。大震災15年の今なら、何を書いたろう。

大船渡に着き、ワイナリー「スリーピークス」で地元産のシャルドネによる白ワイン「ブランコ2023」を買った。オーナーの及川武宏さんとは知己を得て10年を超す。震災後に故郷に帰り、農地にブドウを植えてワイナリーを立ち上げた。来意を告げると、「英里ちゃんによろしく」と言われた。

同級生なのだという。

東日本大震災15年

鈴木さんに聞いた。

「15年たっても、人の苦しみや苦悩は続いています。人の悲しみが完全に癒えることはありません。そして課題は常に、別の形で降りかかってきます」

「震災の2年後に神戸を取材しました。阪神大震災から見事に復興した港町をみたかったのですが、異口同音に聞いた言葉は『復興はできていない』でした。コミュニティーの喪失、町の空洞化、癒えることない悲しみ。地元紙にみる課題の数々は未来新聞を読むようでした。私たちにも次なる被災地となる地域に対しての責任があります」

山積する問題に取り組み、人の悲しみに寄り添い、風化と戦う。ただ、そこでみる希望も連載に書いてきた。例えば震災2カ月後の、町の人の姿。

《神戸市消防音楽隊が陸前高田で演奏会を行った。なぜいま音楽なのか。演奏で腹は膨れない。半ば皮肉めいた気持ちで取材にあたった私の目から気づけば涙がボロボロこぼれていた。

それまで押し黙っていた高齢の女性たちが、顔をくしゃくしゃにし、「こんなにしてもらって、ありがたくて」と泣き笑いを見せる。彼女らは「いつか恩返しさせてもらいたいねぇ」という言葉の後、こう続けた。「だから生きたい」と。

すごい。助けられたことが、この人たちの生きる理由になったのだ。辛(つら)くないわけがない。それでも、生きようと涙をぬぐうのだ》

これは、折に触れて訪れるだけの記者には、書けない。連載にはこんなシーンもあった。

記者も皆被災者。取材で遺族の傷に触れることが怖い。当時の編集長はまず、震災直後に入社した新人に手記を書かせた。

彼は交番勤務の警察官だった父を亡くした。父は記者となる息子に軽自動車を贈ると約束した。帰らぬ父の部屋には車のカタログが積まれ、付箋が貼られていた。震災前日のメールには「記者は大変だが、やりがいもあると思う。頑張れ。父はいつも応援している」とある。亡き父の〝遺言〟に報いたい―。

東海新報

「15年という時間がたったからこそ口にしにくい悲しみ、苦しみがあります。家族にさえ言えないこともあります。逆に、今ようやく話せることもあります。それらを否定せずに受け止める場所、他人が必要です。そうした言葉を傾聴できる媒体でありたいと思っています」

「住民の意見が二分するような問題、例えば震災遺構をめぐる考え方の違いなど、きちんと両者の言い分を聞いて、歩み寄りのテーブルにつくための正しい情報提供に努めたい。及川君のワイン造りも点ではなく、地域の線から面に輪を広げていくハブの役目を担いたい。やっぱり東海は必要だよね、といわれる存在でありたい」

ここに地域紙の理想、そして新聞の力、価値がある。

新聞の力

鈴木さんのデスクには、長く「産経抄」を担当した石井英夫の著書が積まれていた。そこにささやかなつながりをみる。

鈴木さんの父、2代目社長の英彦さんがファンだったのだという。東海新報は創刊2年後の昭和35年、チリ地震津波に被災して約1週間発行を停止した。この反省から英彦さんは社屋を高台に移転し、自家発電機も備えた。大震災当日には号外、翌日から新聞を発行し、社員総出で避難所に配った。

読み手に届いてこその新聞である。それは、どの新聞にとっても変わらない。(べっぷ いくろう)

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