「安全保障のジレンマ」抑止力という幻想を打ち砕くには――長射程ミサイル配備の熊本から問う 超党派「人道外交議連」事務局長・伊勢崎賢治
(2026年7月27日付掲載)
熊本市でおこなわれた伊勢崎賢治議員の講演会には約300人が詰めかけた(7月25日)
陸上自衛隊健軍駐屯地に中国本土を射程に収める25式地対艦ミサイルが配備された熊本市で7月25日、超党派「人道外交議員連盟」事務局長の伊勢崎賢治参議院議員(れいわ新選組所属)が「『安全保障のジレンマ』抑止力という幻想を打ち砕くには~25式地対艦ミサイルが配備された熊本から問う~」と題して講演会をおこなった(主催/平和を求め軍拡を許さない女たちの会・熊本)。長射程ミサイル配備への反対世論が渦巻くなか、約300人が会場に詰めかけ、世界各地の紛争地で武装解除や停戦調停役を担った伊勢崎氏の実体験から導き出される講演を聞き入った。以下、伊勢崎氏の講演要旨を紹介する。
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伊勢﨑賢治氏
昨日は夜中まで国会本会議があったのだが、熊本に来る意味があると思って来た。みなさんは当事者だからご存じだと思うが、熊本は今日本の防衛政策において、南西シフトの延長線上で極めて危険な「国防の最前線」に組み込まれつつある。ここ熊本には最新鋭の地対艦ミサイルが配備された。政府・防衛省はこれを「抑止力を高めるため」もしくは「国を守るため」と説明している。
本題に入る前に、私の立ち位置を明確にしておきたい。私は防衛省の統合幕僚学校という陸海空自衛隊の精鋭たちだけを教える学校で18年間教鞭を執った。現場で国を守るため汗を流す自衛隊員たちは教え子であり、自分の子どものように思っている。私はこれまで紛争地で多国籍の軍隊と行動を共にしてきたが、自衛隊はその練度と軍事的な真面目さにおいて群を抜いているという自負がある。だからこそ私には絶対に譲れない信念がある。軽薄な政治家の判断で彼らを一人たりとも犠牲にしてはならない――この思いにおいては、誰にも負けるつもりはない。
安全保障化と脅威の誇張 今の社会を覆う空気について
ミサイルを置くということは、そこが有事のさいに真っ先に敵のターゲットになることを意味する。抑止力という美しい名の下に、沖縄や先島諸島、そして九州・熊本の住民が、あるいは最前線に立たされる私の教え子たちが、大国間――この地域でいえばアメリカと中国、その後ろのロシアだが――その大国間の衝突の捨て石にされるのではないか、という危機感がある。
私たちが知らず知らずのうちに陥っている社会の空気についてお話する。学問としての国際政治の世界では、「安全保障化(セキュリタイゼーション)」という言葉がある。これは権力者やメディアが「でかい敵が攻めてくる」「このままでは国が蹂躙(じゅうりん)される」と大騒ぎして、人々に強い恐怖感を植え付ける手法のことだ。それで一線をこえる。今まであったルールをこえる。軍事にお金をもっと使う。それを正当化するために、古今東西で同じことをしている。
なぜ国家はこのようなことをするのか。私は国会で国家情報局設置法の質疑に立ったとき、政府に対して一つの言葉を定着させた。「スレット・インフレーション」。スレットとは恐怖や脅威という意味だ。脅威の誇張――この危険性を強く警告した。情報機関や防衛組織がみずからの組織の重要性や正当性、予算や権限の拡大、そしてみずからを正当化するために、外部の脅威を意図的に、あるいは無意識のうちに過大評価してしまう病理的な現象を「スレット・インフレーション」という。これは学問的に確立された考え方であり、どこの国家もどんな政治家も陥る。
歴史を振り返れば、イラク戦争というインテリジェンス史における極めて苦い経験、燦然と輝く悪例がある。あのときイラクに大量破壊兵器があるという情報が世界中を駆け巡り、戦争へと突き進んだ。しかし実際にはそんな兵器は存在しなかった。問題の本質は、開戦、つまり戦争を始めるという政治的なアジェンダ(行動計画)が先にあり、その結論を補強するためにインテリジェンス(機密情報)が使われ、歪められたことだ。インテリジェンスの政治利用だ。
今、日本でもまったく同じことが起きている。「台湾有事は日本の有事である」「明日にでもミサイルが飛んでくる」と脅威が誇張され、社会全体がパニック状態に陥っている。だから、これだけ国民が生活苦にあえいでいるのに、生活や教育、福祉の予算を削ってでも、何兆円もかけて最新兵器を買おうという極端な選択が、まともな検討もなしに「緊急事態だから仕方がない」といってどんどん進んでいく。それに対する批判能力がかき消される。「反日だ」とかのレッテルを張られるのをみんなが恐れて口をつぐむ。このような空気だ。今の日本はこの「安全保障化(セキュリタイゼーション)」の罠にすっぽりと入っている。
さらに恐ろしいのは、この脅威の誇張というエンジンが、国会という民主主義のブレーキを外されたまま、すべて内閣の一存で決められてしまうことだ。今回通過した法案は、すべて国会を軽視する法案だ。ついに武器輸出の拡大まで来てしまった。インテリジェンスというエンジンと武器輸出というアクセルを政府が独占し、国会のチェックを経ずに軍事化が進んでいる。かつて、軍人出身のアイゼンハワー米大統領が警告したように「みずからの利益のために脅威を作り出す軍産複合体」の悪夢がこの日本で現実のものになろうとしている。
しかし、そのように恐怖に駆られて日本が軍備を増強したとする。すると中国や北朝鮮はどう反応するだろうか? 当たり前だが、「日本が攻めてくるかもしれない」というメッセージを受けとり、彼らもまた軍備を増強する。この防衛のための軍拡がお互いの首を絞め合う。終わりのない連鎖を生み出してしまう。これを「安全保障のジレンマ」という。
ウクライナ軍とロシアの戦闘が続くウクライナ東部で被弾した住居から人々を救助するボランティア(2023年6月)
では、この軍拡競争の連鎖が進んだ先でもっとも危険な立場に置かれるのは誰か? それは強大な大国間に挟まれた日本のような国だ。こうした国を専門用語で「バッファ・ステート(緩衝国家)」という。ウクライナがまさにその典型だ。ウクライナは、米国・ヨーロッパとロシアという大国間対立の最前線に置かれた。もちろんロシアは侵略の当事者であり、その責任は免れない。そしてロシア自身もすでに膨大な兵士を失っている。
しかし、ここで私たちが直視しないといけないのは、もう一つの冷酷な現実だ。戦場になっているのはアメリカ本土ではない。ロシア本土の大都市でもない。瓦礫となり、焦土と化しているのはウクライナだ。奪われているのはウクライナの人々の命だ。アメリカやNATO諸国は自国兵士を直接大量投入することなく、ウクライナへの武器供与と情報支援によってロシアを消耗させている。ロシアはロシアで、みずからの兵士を大量に失いながら、戦場をウクライナの土地に固定し続けている。これが典型的な大国間対立の最前線に置かれた緩衝国家の悲劇だ。一度戦場にされれば、燃えるのは大国の首都ではない。燃えるのは緩衝国家の町と暮らしと命だ。
日本もこの構造と無縁ではない。むしろ鏡映しだ。その意味では「今日のウクライナは明日の日本」という言説は正しい。日本はアメリカという超大国の同盟国でありながら、中国、ロシア、北朝鮮という核保有国、あるいは核戦力を持つ国々に囲まれている。地政学的に見れば、日本は大国間対立の最前線に置かれた、典型的な極めて危うい緩衝国家だ。われわれは、まずその認識を持つべきだ。
そして、九州・熊本、南西諸島は、その最前線に位置している。日本自体が緩衝国家であり、その最前線になるのがここだ。ここに長射程ミサイルを置く、弾薬庫を増やす、基地機能を強化する。政府はそれを「抑止力」と呼ぶ。しかし相手からすれば、これは攻撃準備に見える。こちらが「防衛だ」といって軍備を増やせば、相手も「防衛だ」といって軍備を増やす。こちらが相手にミサイルを向ければ、相手もこちらにミサイルを向ける。こちらが警戒を強めれば、相手も警戒を強める。その結果、誰も戦争を望んでいないのに戦争の可能性だけがどんどん高まっていく。これが安全保障のジレンマだ。
軍拡を進めれば進めるほど日本は安全になるのではない。むしろ大国にとって使いやすい戦場になっていくだけだ。ミサイルを置けば置くほど、そこは守られる場所ではなく、攻撃目標として相手の地図に刻まれる。基地を強化すればするほど、そこに暮らす住民は、有事における「最初の一撃」に晒される。これは歴史が証明している。
地対艦ミサイルが配備されたこの熊本も、もはや後方の安全な地域ではない。大国間対立の作戦地図の中にすっぽりと組み込まれた場所になってしまった。その現実を私たちは直視しなければならない。
文民統制の機能不全 問題は政治の不作為
陸上自衛隊中央情報隊が大学教授やNPO代表ら日本人市民を対象に思想調査をおこなっていたことを報じた『熊本日日新聞』(7月23日付)
この安全保障化(セキュリタイゼーション)という病が、いかに恐ろしい形で私たちの日常生活、社会を蝕み始めているか。『熊本日日新聞』が極めて衝撃的な記事を報じた。この記事によれば、陸上自衛隊の現地情報隊という部隊が、本来の任務である海外での情報収集を逸脱し、国内の大学教授、NPO代表者、一般市民を対象に、愛国心や対自衛隊感情、思想信条といった内心の情報を無断で組織的に収集しているとされている。その数は数千人分にのぼると見られている。もし、この記事が正しいとすれば、極めて深刻な事態だ。なぜなら明確な法的根拠も示されず、防衛大臣をはじめとする政治家や官僚すら十分把握していない状態で、このような活動がおこなわれていたことになるからだ。もちろん国会議員である私も知らない。
これは明確なシビリアンコントロール(文民統制)の崩壊、もしくは機能不全だ。私はこの記事を読み、背筋が凍った。激しい怒りを覚えた。しかし、その怒りの矛先は、現場の隊員たちに向けたものではない。彼らはただ上官の命令に従い、国のためにと信じて任務を遂行しているだけだ。この報道が事実であれば、私の怒りは、現場の隊員たちにこのような不透明で法的根拠もない任務を強いている防衛省の上層部と政治家、政治の不作為に向かう。
「国を守る」という大義名分さえあれば、自衛隊が国民の内心に踏み込み、「こいつには愛国心があるかどうか」と勝手に選別することが許されるのか? 許されるわけがない。私は国会で「セキュリティ・クリアランス制度」の危険性について散々警告してきた。木原官房長官(熊本1区選出)に対し、建設的な立場から議論してきたので、ぜひ議論の様子をYouTubeで確認してもらいたい。
「国家機密を扱う」という名目で、個人のプライバシー、思想信条まで国家が丸裸にする。さらに一部の政治家たちは「国旗損壊罪」を新設し、「愛国心があるならば国旗を守れ」と同調圧力を増やそうとした。歴史を振り返れば、国旗損壊を犯罪化することは、一般市民による凄惨なリンチや集団暴力を誘発する引き金となってきた。刑法に国旗損壊罪があるトルコでは、有名なメルシン国旗事件が起きた。「クルド人の子どもがトルコの国旗を汚損した」という報道を機に、一般市民が愛国的な自警団と称して、マイノリティであるクルド人住民への凄惨な集団暴力をエスカレートさせた事件だ。実は現在、埼玉県川口市周辺に暮らすクルド人コミュニティの多くは、この事件の前後に迫害から逃れるために日本へ来たという背景がある。
高市総理が「兄妹」と呼び合うモディ首相のインドにも国旗損壊罪が存在する。モディ首相の後ろ盾は、ヒンドゥー至上主義勢力だ。2022年に発生した「コラール国旗デマ襲撃事件」では、イスラム教徒の肉屋がインドの国旗に肉を包んで客に渡したという偽写真がSNSで拡散された。実際は、国旗ではなく単なる緑色の包装紙だったにもかかわらず、これに激高した数百人のヒンドゥー教徒が店に押し寄せ、リンチ、殺戮をおこなった。国家が国旗損壊を犯罪化することは、大衆に対して「国家の象徴を汚す者は、われわれの手で成敗していいのだ」という法的な、あるいは道徳的な免罪符を与えてしまう。それは分断を煽る興奮剤になる。だから犯罪化してはいけないのだ。
さらにこのリスクは、現在の安全保障における「認知戦」において、最悪の形で悪用される。外の敵対勢力が生成IAを使ったディープフェイク技術を用いて、日本在住の特定外国籍グループが国旗を踏みつけている偽動画を流すとする。すると国旗損壊罪(非親告罪)という法律があるがゆえに、自警団の暴力を「国家公認の正義」として合法的に誘発できる。その結果、国内は大混乱に陥る。そのような格好の「アタック・サービス(敵の付け入る隙)」をわれわれ自身が仮想敵に提供することになる。
外敵の脅威を過剰に煽り、国民を恐怖に縛り付ける。そして「国を守るためだ」といいながら、実は国内の市民に監視の目を光らせ、異論を封じ込める。現場の隊員たちを「国民を守る盾」ではなく、「国民を監視する道具」として使う。これが安全保障化(セキュリタイゼーション)の末路だ。私たちは、外からのミサイルに怯える前に、私たちの自由と民主主義を内側から破壊しようとする国家の暴走について目を光らせないといけない。
抑止力の本質を取り違え お花畑の防衛計画
政府が推し進める軍拡において、その実務の中身はどうなっているか? 私は昨年、沖縄県の与那国島、石垣島の駐屯地を視察した。そこで私が見たのは真摯に任務にとりくむ教え子たちの姿だ。基地司令の一人は私の教え子だった。彼らを死に追いやるような、言葉を失うほどお花畑的な防衛計画の実態を僕はそこで確認した。
第一に、「脅威の指標」が国民に対してブラックボックス化されている。自衛隊が脅威をどのように見ているかを、わが国の防衛省は国民に対して伝えない。「軍事だから当然だ」と思うかも知れないが、絶対にそんなことはない。政府は「手の内を明かせない」といって自衛隊自身の警戒レベルや防御基準を一切明らかにしないが、これは抑止力の本質を根本から取り違えている。
本来、抑止力とは、ただ武器を隠し持つことではない。国民向けに「エイエイオー!」をやるようなものは抑止力といわない。抑止力の基本とは、相手にこちらの意思、われわれの我慢の限界、境界線を誤解させないことだ。「ここまで踏み込んだら、こちらは本気で警戒レベルを上げるぞ」「このレベルをこえたら、われわれは重大な措置をとるぞ」という段階的なシグナルをあえて相手国に明示するのだ。それによって相手の誤認や誤算を防ぐ。戦争の多くは、この意図の読み間違え、双方の誤認と誤算の積み重ねから起きる。
だからこそ米軍には「FPCON」という5段階の防御基準があり、在日米軍も警戒レベルを上げれば、それを周りの自治体に通知(公開)している。これが抑止力の基本だからだ。米軍は手の内をすべて隠すことを抑止力とは考えていない。あえて警戒レベルを公開することで相手とコミュニケーションをとるのだ。
さらに、この指標を軍事組織が公開することには、もう一つの重大な意味がある。それは周辺住民が事態の緊迫度を把握し、自発的に避難の準備をおこなうためだ。そういうシグナルを示さず、住民や地方自治体を蚊帳の外に置いたまま、どうやって命を守るための退避計画ができるのか。少なくとも米軍自身がそんな考えはまったくとっていない。
第二に驚いたことは、「最前線基地」である与那国と石垣で、自衛隊員が家族を帯同させて生活していることだ。これは異常極まりない。世界の軍事常識からいえば、先島諸島のような国防の最前線では、例外なく兵士の家族は非帯同が鉄則だ。有事のさい、目の前の敵と対峙し、一瞬の判断に命をかけて任務を遂行しなければならない隊員たちが、すぐ隣の宿舎にいる妻や子どもの安否を気遣いながらどうやって戦うのか? これをお花畑という。
そして、有事が発生したさい、限られた小さな島の空港や港は当然、自衛隊の作戦のために使われる。そこに緊急避難する家族、一般住民が同時に殺到すれば、これらのインフラは一瞬でパンクする。これを想定するのが危機管理だ。だから少なくとも混乱を防ぐために家族は帯同させない。それが普通の軍隊が考えることだ。
もし港や空港が破壊されれば、逃げ場を失った住民と隊員の家族は当然、最後の望みとして駐屯地に殺到するだろう。私は実際に紛争の現場でこれを経験している。殺到した民衆のなかにスパイがいることも想定もされるため、兵士は銃を向けて制止し、基地のゲートを閉めるはずだ。誰を中に入れるのかを選ぶ、いわゆるトリアージが始まる。これが最前線のリアリティだ。自分の家族と目の前の住民のどちらを優先するのかという凄惨な選択を、私は自分の教え子たちに絶対にさせたくない。最前線に家族を置くということは、隊員に「みずから人質を抱えて戦場に行け」といっていることと同じだ。日本は今それをやっている。これほど残酷で無責任な配置はない。
第三に、国際人道法という国際法がある。戦争のルールであり、ジュネーブ条約という世界で最も重い国際ルールだ。アメリカのような大国も違反するが、「違反だ」といえる根拠がこの国際人道法だ。そこに「人間の盾」というリスクがある。日本も批准しているジュネーブ条約追加議定書第58条には、「軍事目標の近傍から民間人を移転させること」「軍事目標を人口密集地の付近に配置することをしない」という予防措置義務が定められている。
ところがわが国は、住民が暮らしているすぐ側にミサイル基地や弾薬庫を置きながら、「有事になったら避難してください」といっている。順序が逆だ。もともと置いてはいけないのだ。火薬取締法を遵守して数百㍍離していると政府はいうが、それは国内における「平時のルール」だ。相手がそんなことを気にして攻撃するか? 気にするわけがない。相手が撃ってきたときから有事になる。有事を支配するのは、国内法ではなく国際法だ。それが平時と有事の違いだ。
たとえば、たった数百㍍しか離れていない弾薬庫を相手が誤爆し、住民が死んでしまったとする。これは戦争犯罪であり、当然わが国は「戦争犯罪をやったな」と相手を非難するだろう。しかし相手はこう切り返す。「だって最初から日本は弾薬庫を守るために人間の盾を使ったではないか」と。これでおしまいだ。戦争とは外交だ。外交的非難の応酬が戦争であり、その根拠となるのが国際法だ。
兵器の性能は時代とともに変化していくので、軍事施設を住民からどれくらい離せばよいかという具体的なことは国際人道法には書かれていない。だが、交戦中のウクライナとロシアの外交的やりとりをみていても、常識的には数㌔だろう。兵器の威力は増していくからだ。軍事施設と住民との距離が数百㍍しかないのなら、日本が「人間の盾」を使って誘発したとみなされる。これが国際法にもとづく戦争の法学的な現実だ。
米軍は自分たちが標的になることを冷静に理解し、部隊を分散させる。そして、すでに沖縄で始まっているが、まず家族を逃がす計画を立ててそれを公開し管理する。「Non-essential staff Evacuation Operations(非必須軍事職員の退避計画)」だ。これが戦場のリアリズムだ。だが日本の防衛計画は、自衛隊員家族の避難、そして一番大切な住民の避難がまったく連動していない。脅威の指標も防御基準も公開しない。ミサイルが配備されたこの地でも、有事のさいの住民避難計画が本当に実効性があるのか――それを、この観点から考えてほしい。
法的対処能力の欠如 世界で唯一の異常
政府は今、「継戦能力」(戦い続ける能力)をくり返し強調し、弾薬の備蓄や防衛産業の強化を進めている。しかし、戦い続ける力はモノだけではない。もし戦場で誤爆など民間人を傷つけるような事態を自衛隊が起こしてしまったとき、日本が独立してその事実を調査し、国内法で捜査、処罰し、それを世界に説明する能力が問われる。なぜこれが必要かというと、戦争は外交だからだ。この法的対処能力、法的継戦能力が、日本は世界で唯一完全に欠如している。
もしこの法的能力が日本にないということが世界に知れてしまったら、われわれの信頼は崩壊する。不法国家のレッテルを張られ、同盟国も見放すだろう。いうら弾薬、燃料、最新鋭のミサイルがあっても、同盟国や国際社会からの信頼を失えば、その時点で戦略的な敗北だ。今の日本には、戦争犯罪を直接裁く法律、そして部下の暴走を止めなかった、あるいは不当な命令をした上官を処罰するための「上官責任」を訴求する法がない。上官責任のトップは総理大臣だ。国家の命令によって引き起こされる戦争犯罪をみずから裁く法がない。これはブレーキのない車にさらに強力なエンジンだけを積み込んでいるようなものだ。
ここを強調したい。法整備を後回しにしたまま、つまり上官責任を裁く法もないままいくら装備だけを積み上げても、本当の継戦能力にはならない。国際法上の歯止めも、説明責任の仕組みも、現場を律する制度も不十分なまま、ただ射程の長いミサイルや大量の弾薬を前線に並べる。それは相手から見れば「規律ある防衛力」には見えない。いざというときに誰が責任をとるのかわからない、統制の効かない危険な軍事力にしか見えない。つまり法的対処能力なき軍拡は抑止力ではない。戦争を止める力ではなく、相手の警戒心だけを刺激し、不信を増幅させる。これは抑止力論の真逆を行っている。先制攻撃の口実さえ与えかねない危険な装置といえる。
それは実体のない張り子の抑止力だ。見た目だけは勇ましい。予算だけは膨らむ。防衛産業だけは潤う。しかし、危機の瞬間に国際社会の信頼を保持し、現場の暴走を止め、責任を明確にする仕組みがない。ただ相手を刺激し続けるだけの非常に危ういハリボテだ。だから私はこれを執拗に国会で問いただしている。弾薬を積み上げる前にまず法を整えよ。ミサイルを配備する前に責任の所在を明確にせよ。戦える国にする前に国際法に従ってみずからを律する国にしなければならない、と。この問いに答えられない軍拡は、継戦能力でも抑止力でもない。日本をより危険な場所にしていく無責任な軍事化にすぎない。
主権のない日本の現実 地位協定と朝鮮国連軍
さらに深刻なのが、自国の軍事基地(米軍、自衛隊)をコントロールする国家主権の軽視だ。
イラン情勢を見てほしい。この戦禍の中で、アメリカの同盟国は何をしたか? 米軍基地を抱えるサウジアラビア、カタールをはじめとする湾岸諸国、そして、アメリカの強固な同盟国であるはずのイタリアなどNATO諸国は、アメリカの過度な要求(イラン攻撃のために基地を使わせろ)に対して毅然と「NO」といっている。「わが国の領土、基地から、イランへの攻撃をおこなうことは絶対に許可しない」と、彼らは自国の主権を行使して米軍の行動をはっきりと縛った。かつてイラク戦争のさいにも、NATO加盟国のトルコは自国領土からの米軍の出撃を議会で否決し、同じくサウジアラビアも自国内基地からの直接の攻撃を拒否した。その主権国家としての姿勢は、現在のイラン危機においてもまったくぶれることなく貫かれている。同盟国だからといってアメリカの戦争に自動的に付き合うわけではない。
これは「事前協議」といった名ばかりのとり決めではない。基地使用の不許可という主権国家としての当然の権利を行使し、米軍の攻撃の結果、自国が報復攻撃の標的になることを防ぐ。つまり国防の観点から主権を行使するのだ。
2月28日、米軍トマホークの犠牲になったイラン南部ミナブの女子小学校の児童たち(攻撃前)
イラン戦争では、南部の港町ミナブの女子小学校がトマホークミサイルで爆撃され、160名を超える子どもたちが殺された。周辺の同盟国は米軍基地を使わせなかったため、トマホークは米艦船から発射された。では、その艦船はどこから出港したか? 日本だ。
なぜ彼らには、当然のように拒否権の発動ができて、日本にはできないのか。それは、国際社会で当たり前になっている一つのルール「互恵性(レシプロシティ)」が、日米地位協定にだけ完全に欠落しているからだ。アメリカが結ぶ地位協定は、日米のものを含めて100以上あるが、日本だけにそれがない。
ここでいう互恵性とは、アメリカとその駐留を受け入れる国の間で、どれほど国力や軍事力が非対称であっても、協定の中に「法的な対等性」を組み込む仕込みだ。どんな小国でも法的には対等なのだ。米軍のすべての行動は、事前協議などという生ぬるいものではなく、受け入れ国の許可制だ。法的に対等であれば、協定を結んだ双方の国に同じ権利を与えることになるため、アメリカが自国内で認めないことはアメリカ軍も相手国ではおこなえない。これが世界常識になっている。
日本は「事前協議の制度があり、イエスともノーともいえる」と説明しているが、実態は違う。1960年の安保改定時、当時の佐藤総理が有事のさいの出撃要請に対して「前向き、速やかに態度を決定する」と米側と一方的に約束した。これは「自動イエス」の仕組みにほかならない。
この「自動イエス」の仕組みすら通用しない、さらに深刻な「主権の空白」が私たちの足下に存在する。これは国会議員すら知らない。だから僕は先日の予算委員会でこれを指摘した。質疑の動画をみてもらったらわかるが、この現実は誰も否定できない。
つまり、日米地位協定のほかにある、もう一つの地位協定だ。それが朝鮮国連軍地位協定だ。1954年、GHQ占領期が終わったばかりの日本がまだ国連に加盟すらしていない時期、アメリカにいわれるがままに結ばされた協定だ。横田・座間・横須賀・佐世保・嘉手納・普天間・ホワイトビーチの7つの在日米軍基地が朝鮮国連軍後方支援基地に指定された。これは今も続いている。
1960年の日米安保条約改定時、朝鮮国連軍については事前協議なしで出撃できる「朝鮮議事録」という密約が交わされた。アメリカではとっくに公開されているこの文書は、日本では機密文書扱いだ。国会情報局設置法が国会を通ったため、これからこういう情報の隠蔽がさらに強化されるだろう。
朝鮮国連軍後方支援司令部が置かれている米軍横田基地(東京都)
これがどれほど恐ろしい現実を生むか。2023年8月15日、韓国の国家行事「光復節」の式典で、尹錫悦前大統領は「北朝鮮が南進(韓国に侵攻)すれば、国連軍は自動的かつ即時に介入する」「日本が国連軍司令部に提供する7つの後方基地は、韓国侵攻を遮断する最大の備蓄拠点だ」と明言した。なぜ尹前大統領はわざわざ「自動的に」といったのか? それは日本の主権をバイパスして、事前協議もなく、即座に報復戦力を発信させる仕組みが今なお機能しているからだ。つまり日本は「自動報復装置」なのだ。
朝鮮国連軍は創設の経緯からして北朝鮮だけでなく中国も敵対国だ。その中国はいまや国連常任理事国の一員であり、国連が対峙できる相手ではない。この朝鮮国連軍は、国連自身が「国連の組織ではない」と明言し、米国自身もかつては解体を提案したものであり、実質的には米軍主導の多国籍軍だ。つまり「冷戦の遺物」にほかならないが、ゾンビのようにまだ実働している。日本はその国連軍の構成員ではないため、交戦の意思決定にも関与できない。それでも朝鮮半島有事が起きれば、日本はみずからの意思とはまったく関係なく、知らされもせず戦争の拠点になる。当然、相手国には、われわれを合法的な報復目標として攻撃する権利が生まれる。これが国際法だ。
韓国の一大国家行事で「日本は自動報復装置の一部である」と公言されても、日本政府は抗議すらしなかった。これのどこが主権国家なのだろうか。私たちは冷戦の遺物である朝鮮国連軍地位協定を主体的に解消する時期に来ている。
私は第1次トランプ政権時の2017年、ソウルで開かれた米陸軍太平洋司令部が主催する太平洋陸軍参謀長会議にスピーカーとして招待された。ここでの米軍の最高司令官とのやりとりで「朝鮮半島における米軍の行動は、朝鮮国連軍としての行動である」という前提を確認している。この朝鮮国連軍が地位協定を結ぶ唯一の国が日本だ。にもかかわらず日本は戦争の意思決定の枠組みに入っていない。その前提で彼らは有事の作戦行動をシミュレーションしていることを認識しなければならない。
私たちは軍産複合体を喜ばせるために高額な兵器を爆買いする前に、まずこの不平等な地位協定の「闇」に切り込み、真の主権を取り戻さなければならない。これは与党も野党、保守もリベラルも関係ない。現状、リベラルと保守がいくら争っても、それはアメリカのてのひらの上で相撲をとっているだけだ。
「命どぅ宝」軸に超党派の連帯 現実的なロードマップ
では、これから何を指針にするのか。私にとってのそれは沖縄戦の熾烈な体験から生まれた言葉「命どぅ宝」だ。「領土を守るために命を張れ」と政治家にいわれても、「ふざけるな」という気持ちだ。非国民などといわれても関係ない。命こそ大切だ。
国家のメンツや一部の産業の利益よりも個人の命と尊厳を最優先する。私は現在、この精神のもとに、日米地位協定の抜本的改定と朝鮮国連軍地位協定の解消に向けた超党派の動きを作りつつある。右も左も関係ない。日本の主権と国民の命を守るという一点において党派をこえた連帯を作るためだ。
その意味で今、国際政治の舞台には一つのチャンスがある。それはトランプという大嫌いな存在だ。トランプ大統領は、日本を含む海外に駐留する米軍を「コスト」と捉え、同盟国に負担を求めている。現在、辺野古の新基地建設は、軟弱地盤問題と2兆円をこえると試算される総工費の膨張で、プロジェクトとして完全に破綻している。アメリカはそれほど重要視していないのに日本だけがこだわっている。これほどの国費と歳月を費やすくらいなら、その予算の一部、たとえば数千億円あれば「立ち退き料」としてトランプ大統領に提示して普天間基地を時価で買い戻し、海兵隊をグアムに撤退させるディール(取引)を仕掛ける――という半分冗談のようなことも想定できる状況にある。
もう一つのチャンスは、韓国の政治状況だ。現在の韓国の李在明政権は、朝鮮国連軍の存在を「韓国の主権の侵害」と捉えて強く批判している。今こそ日韓両国が「主権の回復」という共通の目的で連帯し、冷戦の遺物である朝鮮国連軍地位協定、朝鮮国連軍そのものも解体する――それができるチャンスは今しかない。
そのためには、ナイーブに聞こえるかもしれないが、沖縄や九州を国防の最前線ではなく、われわれと周辺国の危機管理と信頼醸成のための「平和と外交のハブ」に変えていかなければならない。とくに沖縄はそうしなければならない。最終的には北東アジア非核兵器地帯(NEA-NWFZ)を目指す。これが私が政治家として目指す現実的なロードマップだ。
しかし、「非核」を最初から掲げると、核兵器を国家存続のための国是とする北朝鮮とは対話すらできない。だから、偶発的衝突を防ぐための最低限のルールを作ることを入口にする。たとえば欧州には、機能しているかどうかは別としてロシアとの間で中距離ミサイルの配備を制限し合う約束があったが、こういう協定がアジアにはまったく存在しない。そのような協定を結び、この海域では平時においても船舶の遭難時にはお互いに助け合うことなども含めた相互の協力関係を築く。
その次には、軍拡の連鎖を止める限定合意だ。ミサイル追加配備や挑発行為の抑制、凍結を含む緊張緩和策であり、人道、医療、災害対応などで相互に協力する。そして最終目的として、北東アジアの非核化だ。対話を開始し、それを重ね、相互の信頼を積み上げた後の到達点としてそれを実現する。これが現実的だ。
憲法9条は「相手を思ってあげる白旗」
戦争はある日突然、空から降ってくる自然災害ではない。そのずっと前から外交的緊張などいろいろな要因が積み重なって起きる。人間の煽動、脅威の誇張によって戦争の因子は徐々に作られ、それがいつか爆発する。双方の社会で起きる同調圧力によって加速し、政治の不作為によって引き起こされるのが戦争だ。
日本の海岸線には、仮想敵に向けて50基をこえる原子力発電所が並んでいる。これは自分自身に向けた核弾頭だ。ウクライナ戦争では、原発が陸上戦の戦場になる恐怖を世界は味わった。もはやミサイルは必要ない。送電線を破壊し、電源喪失に追い込むだけでこの国は自滅する。これだけの脆弱性を抱えたまま脅威だけを煽っているのだ。この国では自衛さえできないという根本的な現実に目を向けなければならない。「憲法9条の下でも個別的自衛権は許される」という護憲派の認識も間違っている。もはや原子力施設を攻撃し合うことが日常化し、米国とイスラエルは悪びれることもなく核施設を攻撃している。この現実を見たとき、われわれはどうやってこの国を自衛できるのだろうか。
憲法9条を戴くわれわれは白旗をあげるしかない。その白旗は、自分たちの命乞いのためではない。相手国の子どもたちを思う白旗であり、最も勇気ある白旗だ。だから、ゆめゆめ「9条は専守防衛を許している」などと思わないでほしい。変な政党に乗せられるべきではない。純真な心で9条を読み直そう。9条の精神とは、相手のことを思って白旗をあげることだ。
問題は政治だ。昨日も変な法案(副首都法案)が通過したが、私はあの場にいることさえ情けなかった。国旗損壊罪、経済安保法、国家情報局設置法……みんな通ってしまった。私は「学者のままではだめだ」と思って政治家になったが、これほどの無力感を感じたことはない。
今日は健軍駐屯地も拝見し、熊本がどんな文化を育む場所であるかを理解した。熊本を変えるということは、もしかすると日本を変えることにつながるのではないか。これからも熊本を訪れたいと思う。
■参加者との質疑応答より
質問 自衛隊が一般人の「内心」を調査していたという報道について。内心に踏み込むことは国防に資することなのか? 政府にはどのような対応が求められるか?
伊勢崎 30年前、私は国際NGOの一員としてアフリカで働いていた。1989年に「子どもの権利条約」が発効されて批准国が増えていくわけだが、その動きの中に私はいた。1994年に日本もようやく批准したが、日本ではこの条約への理解が非常に浅いといわざるを得ない。同条約は子どもの「内心の自由」を謳っている。つまり「親を大切にしなさい」という良心、「国旗を敬いなさい」という一つの考え方を教える(指導する)のはいいが、校則や罰をもって強制してはいけない。
今回成立した国旗損壊罪には、年齢による除外規定がない。14歳の子どもが何の悪気もなくやった行為も刑事処分の対象になる。14歳は子どもの権利条約的には子どもであり、私は子どもの権利条約に違反していると国会で指摘したがまったくうけなかった。内心とは、強制によって標準化されることなく、子どもの時期から個人がそれぞれの価値観として育むものだ。それが国家の意思にそぐわなければ罰則を与える――その象徴が国旗損壊罪だ。子どもの観点からそれを国会で指摘したのが私だけだったことにショックを覚えている。
もし今、自衛隊が一般人の内心を調査しているとすれば、それもその延長線でおこなわれている。国家権力、それも強大な武力を背景にした集団が国民の内心に入り込もうとしているということだ。この重大さを考えるためには、子どもの権利から考えてもらいたい。諦めてはいけない。どんな法案も廃案にすることができる。
質問 段階的なプロセスで東アジアを平和外交ハブに転換していきたいという話に共感したが、それには歴史認識が避けて通れない問題としてあると思う。戦前、戦後の歩み方が違うなかで、どうやって日本と朝鮮半島で歴史認識を乗りこえて実のあるものにしていくのか?
伊勢崎 北朝鮮が核保有を国是とし、これがないと現政権がなくなるという恐怖感に苛まれ、韓国のことも敵対国と見なし、憲法まで変えてしまったなかで、われわれはどう対話していくのか。それはアメリカ、中国、ロシアの理解を得ながら、日本と韓国が主体になるしかない。日韓が手を携えるには歴史の問題がある。これは日本が歴史認識を少し乗りこえるしかない。
そこで僕が実務家としてやったのが、石破さんが総理だったころ、李大統領との日韓首脳会談で、韓国側の国会議員と研究者、日本側は私と東大名誉教授の和田春樹先生の4人でコミュニケ(共同声明)案をつくり、李大統領と石破首相に届けた。そこに日本の歴代首相のまだ誰も継承するといっていなかった「菅直人談話」を継承するという一文を入れようとした。それは日本がみずからの歴史責任を一歩乗りこえたという意志表示になるからだ。結果的に菅直人という言葉は入らなかったが、「すべての歴代首相の談話を継承する」という一言が盛り込まれた。こういうことを積み重ねていくしかない。まず日韓で手を携え、北朝鮮と対話する土台を作る。本当は北朝鮮という呼称にも問題があり、本当は朝鮮と呼ばなければいけない。
みなさんの協力で乗りこえられるものもある。それは在日朝鮮人、朝鮮学校に対する差別の撤廃だ。これをやらない限り、どう対話したとしても朝鮮側は「差別しているじゃないか」といってくる。そもそもこんな差別は、日本国憲法上も、子どもの権利条約上も、人権宣言においても許されない。どんなに国家間の関係が悪くても、ミサイルを飛ばされようとも、子どもに罪はない。この差別的措置(朝鮮学校の高校無償化除外)を始めたのは民主党政権だ。リベラルが何をやっているのかという話だ。こういうことから変えていかないと対話できない。
質問 健軍駐屯地へのミサイル配備に反対している立場からすればジュネーブ条約の軍民分離の原則は一番生かしたい国際法だが、どう活用したらいいのか。あれには罰則規定がないが、その生かし方を教えてほしい。
伊勢崎 ジュネーブ条約は国際条約だから罰則はない。しかし政府に対して、もし有事になったときにどうするのかという話をさせていかないといけない。あれだけ安全保障環境が悪化しているとか、抑止力が必要だというが、僕が質問すると政府は「有事は仮定の話だから答えられない」という。有事、有事といいながら、有事のことなど考えていないのだ。
有事のことを考えるのであれば、当然、法の空白が問題になる。上官責任がないのにどうやって戦争をするのか? これは戦後80年、日本人が考えてこなかったことだ。だから戦後、国際法はそれなりに進歩しているのに、日本国民だけがとり残されている。なぜなら右と左がアメリカのてのひらの上で踊っていたからだ。「そんなことを考え始めたら本当に戦争が起きるではないか」という、そんな話ではない。自衛隊を何と呼ぼうと、すでに世界有数の軍事力を持つ組織だ。軍隊だとか軍隊ではないとか、そんな議論はやめるべきだ。国際法的にも、軍隊などという用語は使わない。「Combatant(戦う人たち)」と呼ぶ。戦う人たちが国家の命令を受けておこなった行為のうち、どういうものが違反行為であるのかを定義するのが国際法であり、それを批准した国はそれに準じた国内法を整備しなさいというのがジュネーブ条約を含む国際法だ。
自衛隊だけが戦争犯罪を犯すと思わないでほしい。たとえば、おしとやかなご婦人たちが日の丸の鉢巻きを締め、落ちてきた敵機の生存者(捕虜)を感情にまかせて殴り殺したら、それは殺人罪ではない。それは戦争犯罪であり、殺人罪より重いのだ。自衛隊を軍隊と呼ぶかどうかなど全然関係ない。国家の意思で動く者はすべて戦力であり、それに対して国家が責任を持たないといけない。この考え方を日本人はまったくしてこなかった。