毛沢東が信じた農法で約4300万人が餓死した…650万個の種蒔きで苗は枯れ土地はやせ果てた"最悪の政策"

歴史上の失敗から学べることは何か。毛沢東は「大躍進政策」の一端として、自身の哲学に合う「学説」に基づく農業開発を推し進めた結果、人類史上最大級の飢饉を招いてしまったという。英作家のマシュー・サイドさんが書いた失敗の科学 成長する組織の条件』より、紹介する――。

※本稿は、マシュー・サイド『失敗の科学 成長する組織の条件』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の一部を再編集したものです。

写真=iStock.com/Jui-Chi Chan

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遺伝学に異議を唱えるという大きな賭け

トロフィム・ルイセンコは、黒い髪にエネルギッシュな目をした生物学者だ。旧ソビエト連邦西部の農家出身で、1920年代に作物の収穫量を増やす新たな農法を考案し、共産主義革命の政治指導者たちから非常に目をかけられた(※1)。

実を言うと、肝心の農法に実際の効果はほぼなかったのだが、野心旺盛なルイセンコは処世術に長けていた。出世の階段を着々と上り、1934年にはロシアの最高学術機関の一部である、レーニン記念全ソ農業科学アカデミーの会員に認定された。

そしてこの年、彼は大きな賭けに出る。20世紀初頭、黎明期にあった「メンデルの法則」に端を発する遺伝学に異議を唱えたのだ。

メンデルは「生物の形質は細胞中の遺伝子によって決まり、それが特定の法則に従って次世代に伝わる」という法則を無数の交配実験を経て統計学的に導き出していた。しかし、ルイセンコは、この新たな法則と、ともに生まれた遺伝学の潮流を真っ向から否定したのである。

※1 ルイセンコの一件は多数の記事や書籍になっている。代表的なものは以下。Valery N. Soyfer ,Lysenko and the Tragedy of Soviet Science (Rutgers University Press, 2006); Nils Roll-Hansen,The Lysenko Effect: The Politics of Science (Prometheus Books, 2004).


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こうしてルイセンコはメンデル派の口を封じ、勝利を確実なものとした。しかしこの「成功」には皮肉なしっぺ返しがあった。イデオロギーによって、ソ連の科学は反証やフィードバックから切り離されてしまったのである。

ルイセンコ以前のソ連の科学界では、数々の学者が華々しい活躍を遂げていた。まず1892年、ディミトリー・イワノフスキーがタバコモザイクウイルスを発見。1904年には、イワン・パブロフが消化生理に関する研究でノーベル生理学・医学賞を受賞。

1908年にはイリヤ・イリイチ・メチニコフが食菌作用(白血球が体内に侵入した病原菌を捕食する働き)の研究で、同じくノーベル生理学・医学賞を受賞。

1927年になると、ニコライ・コルツォフが、遺伝形質を決める因子は二連構造であると発表。これはのちに「二重らせん構造」としてワトソンとクリックによって確認されている。

しかし、スターリンの排斥政策によって、ソ連の科学界は壊滅状態に陥った。ルイセンコ時代に迫害を受けた科学者ワレリー・ソイフォルは言う。「ロシアの科学の進歩は遅れた。止まってしまったと言ってもいい。何百万人もの大学生や高校生が歪んだ教育を受けた」。

それだけではない。ルイセンコの発案した農法にはほぼ効果がなく、貴重な作物を無駄にして、何百万人という国民の生活の質に多大な悪影響を及ぼした。失敗できない「学説」が招いた結果である。

政治的な思惑によって毛沢東が採用

同じくルイセンコの農法を採用した共産政権下の中国では、さらに悲惨な結果が生まれてしまう。ルイセンコは、作物の生産量を増やす策として極端な密植(高密度の田植え)を提唱していた。「同種の植物は互いの成長を阻害しない」という持論に基づく栽培方法だ。

これは「同じ階級の労働者同士が団結することによって共産主義社会を実現する」という、マルクスや毛沢東の哲学にピタリと沿う理論だった。同じ(階級の)植物同士をまとめて植えれば、争うことなく順調に育つというわけだ。

写真=iStock.com/Simon Dux

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毛沢東は農業や工業の大増産を目指す「大躍進政策」の一端として、ルイセンコの「学説」に基づく農業開発を推し進めた。そしてソ連と同様に、西側の影響を受けた科学者や遺伝学者を猛然と迫害した(※3)。

しかし、密植農法は検証されていなかった。失敗も経験しないままに、政治的な思惑によって各地で採用されてしまったのだ。

※2 Jasper Becker, Hungry Ghosts, Mao's Secret Famine (Simon & Schuster, 1997)(『餓鬼(ハングリー・ゴースト)――秘密にされた毛沢東中国の飢饉』ジャスパー・ベッカー著、川勝貴美訳、中央公論新社、1999年)


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  • 作家、英「タイムズ」紙コラムニスト

彼は考えた。このまま否定派としてうまく立ち回れば、政治的エリートとして高い地位を得られるかもしれない。なぜなら、遺伝子の不変性を主張するメンデルの法則は、事物の変化・発展を主張するマルクス主義の「弁証法的唯物論」と相容れなかったからだ。

そこでルイセンコはみずから新たな学説を立て、「遺伝子は環境によって変化し、その後天的な獲得形質も次世代へと伝わる」と主張した。この考え方は、19世紀の博物学者ラマルクの学説の流れを汲むものとも言われている。

科学的な学説は、本来その論理性や実証性が重視される。大事なのは、イデオロギーよりもデータだ。しかしルイセンコは、論理でメンデル派の遺伝学者たちを黙らせることはできなかった。

メンデルの法則には裏付けとなるデータがあり、ソ連中の何千人という科学者が、価値ある説と考えて学問的追究を始めていたからだ。

議論ではなく弾圧に切り替えて

そこでルイセンコは戦略を変えた。議論などせず、弾圧してしまえばいい。立ち回りのうまいルイセンコは、スターリンにメンデルの学説を非合法化してほしいと直訴した。

するとスターリンは、共産主義のイデオロギーに都合が悪い学説を排斥する絶好のチャンスと捉え、これを承諾。その結果、メンデルの学説は「ブルジョア的」「反マルクス主義的」だとして糾弾の対象となり、ルイセンコの学説がソ連の公式見解となった。

当時のソ連では、共産党の方針から外れる者は容赦なく迫害される運命にあった。イズラエル・アゴル、ソロモン・レヴィット、グリゴリ・レヴィツキ、ゲオルギ・カルペチェンコ、ゲオルギ・ナドソンなど大勢の遺伝学者が処刑され、処刑を免れた者は強制収容所に送られた。

高名な遺伝学者ニコライ・ヴァヴィロフも、1940年に逮捕され、3年後に獄中で死亡している。ソ連ではあらゆる遺伝学研究が禁じられ、国中の科学学会において遺伝学者は非難を受けた。

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