〝タンゴを踊る大使〟の日本が脚光 陛下ご訪問が契機 「アキヒトー!」と興奮のルツボ 国際舞台駆けた外交官 荒船清彦氏(14)
公に目にする記者会見の裏で、ときに一歩も譲れぬ駆け引きが繰り広げられる外交の世界。その舞台裏が語られる機会は少ない。1960年代から、激動の世界を見てきた荒船清彦元スペイン大使に外交官人生を振り返ってもらった。
ホームレスがビフテキ食べる
アルゼンチンの牛=ブエノスアイレス(ロイター)《1995年、アルゼンチン大使として赴任した。同国は当時、国際通貨基金(IMF)から「模範生」とみなされ、メネム大統領のもと驚異的な経済成長を遂げていた。後に、度重なる債務危機を起こす国とは思えないほど安定していたものの、日本の存在感はいまひとつだった》
アルゼンチンは中米ニカラグアとは打って変わって、豊かな国でした。広大な草原に牛がゴロゴロいてね。ビフテキをホームレスが食べるような国です。牛肉に加え、ワインも豊富だった。
石灰を採掘できる広大な山脈があり、富豪のジョージ・ソロスが石灰の山を買い占めていましたね。
「ロシアでなくサムライに戦艦2隻を」
高名な経済学者がかつてこう言ったことがあります。「世界には4種類の国がある。先進国、開発途上国、アルゼンチン、そして日本だ」。アルゼンチンは本当に特異な国で、なにしろ資源が豊かな国だった。いい加減な政治をしても、どうにか許されるんですかね。
東城鉦太郎作「日本海々戦の図」。先頭は主砲を発射する旗艦「三笠」(三笠保存会提供)日露戦争(1904~05年)時には、イタリアで建造中だった戦艦2隻を「ロシアではなく、サムライにやりたい」と言って譲ってくれたほどの縁がある国でしたが、その後はあまり縁がない。
日本の発信に僕もいろいろ務めたんですが、まぁ、うまくいかない。習っていたタンゴを披露すると「タンゴを踊る大使」なんて記事は出ましたが、そのぐらいです。
陛下のインパクト、絶大
《ところが、天皇皇后両陛下(現・上皇さま、上皇后さま)がアルゼンチンを公式訪問された際、日本では想像つかないほどの大歓迎を受けた》
アルゼンチンは大統領制の国で、王室だの皇室だのはありませんからね。ご訪問が発表されると、行きつけの理髪店の連中がみんな興奮し、「エンペラドール(天皇陛下)が来られるんだってね。日本についての本を読み始めたんだよ」なんて言う。僕は、その理髪店に1年以上通っていたんですぜ。陛下のインパクトはすごいものでした。
「エンペラドール!」連呼
宿舎にお着きになると、大勢の市民が警官の制止も聞かず、宿舎の玄関を囲んだ。車から一歩踏み出されると、「エンペラドール!」「エンペラドール!」「アキヒトー!」と大声で叫び、興奮のルツボに。数歩、前に進まれた陛下が後ろを振り返られ、ほほえまれながら、右手を肩の当たりまで挙げられ、小さく手を振られると、怒濤のような歓声が上がりました。
もう、大使館の電話が鳴りっぱなし。「日本の陛下は凄い! 優雅で奥ゆかしい。〝本物〟は違う。日本国民が羨ましい」と、こうくる。
フランコ独裁政権時代の名残
スペインのファン・カルロス国王(右、当時)と握手する駐スペイン大使の荒船清彦氏(左)=荒船氏提供《外務省のキャリアの最後は、スペイン大使(98~2001年)だった》
日本で親しくし、後にイエズス会のトップになったニコラス神父がスペイン人だったため、楽しみにしていた国でした。
ところが、スペイン語圏のラテンアメリカとは違った。フランコ独裁政権時代の名残なのか、人脈の構築に苦労しました。米国の大統領なんかは日本の大使と1対1で会ってくれ、ほかの国もだいたいそうですが、スペインの首相は会ってくれないのです。
バスクの古い剣に日本語
独立運動の激しかったスペイン北部バスク州のトップとは、いい関係を築けた気がします。
当時は欧州通貨ユーロの導入が決まり、欧州連合(EU)がますます幅を利かせようとしていた。「バスクが独立したら、EUの中の極小国になり、ますます何もできなくなる。むしろ独立せずに、スペインを利用する方がいいのではないか」と好き勝手を言いました。この発言がよほど新鮮だったのか、バスクの古い剣に僕の名前を日本語で彫って送ってくれました。
バスクは、日本に1549年、キリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの出身地でもあり、どこか、日本人と響き合うところがあったのかもしれませんね。
「暗黒の21世紀」
湾岸戦争時の人質解放を巡り、バグダッドでイラクのフセイン大統領(右)と会談する中曽根康弘元首相(いずれも当時)、1990年11月(AP=共同)《2001年に外務省を退官してから20年あまり。現役時代と比べ、世界はさらに激変している》
あれはロサンゼルス総領事時代のことです。米国が1991年、イラクに攻め込み、湾岸戦争が勃発した。ソ連との東西冷戦が終わり、核戦争の恐怖から解放され、米国が一種のユーフォリア(陶酔感)に覆われていたさなかです。
極めて危うい行動だと思いました。パレスチナ問題の進展なしに、ああいう行動に出るのはちょっと…。
当時、僕が「後世振り返って、この一歩が第三次世界大戦への一歩だったといわれることになるかもしれない。21世紀は暗黒の世紀になる可能性がある」と言うと、みんなキョトンとしていた。しかし実際、2001年に米中枢同時テロ(9・11)があり、中国、ロシア、北朝鮮の問題も起きている。
本当に、「暗黒の世紀」になってしまうかもしれません。僕の予言はよくあたるんですよ(笑)。孫たちにしてみりゃ、当たっちゃ困るでしょうけどね。 =おわり
<あらふね・きよひこ> 1938年、大阪府出身。東大法学部卒。62年に外務省入省。在ナイジェリア、在米大使館勤務などを経て78年、西欧第二課長。88年に外務大臣官房審議官(文化交流)、90年に在ロサンゼルス総領事。ニカラグア大使、中南米局長を経て95年にアルゼンチン大使。98年にスペイン大使。退官後、国際経済研究所理事長や書美術振興会会長を歴任。