東京大空襲8日後の衝撃…焦土の都内を歩いて視察する昭和天皇に土下座する人々が涙を流しながら呟いた言葉 戦前・戦中・戦後あの日の昭和天皇の素顔

日本は今年、戦後80年を迎える。『歴史のダイヤグラム〈3号車〉 「あのとき」へのタイムトラベル』(朝日新書)を上梓した政治学者の原武史さんは「『昭和天皇実録』や著名人の日記による戦前から戦後にかけての記録に、知られざる日本の一面が残されている」という――。

一九二八(昭和三)年一一月、京都で昭和天皇の即位礼と大嘗祭だいじょうさいが行われた。東京―京都間には天皇を乗せた御召おめし列車が運転されたが、ダイヤは秒単位で作成された。天皇は鉄道を利用する限り、秒単位の時間から自由でいることはできなかった。

では自動車はどうか。もちろん鉄道のようなダイヤはなかったが、天皇が乗る自動車が走る場合には道路が完全に規制され、信号も「進め」のままになった。秒単位とは言わぬまでも、分単位のスケジュール通りに動く点で、鉄道と変わらなかった。

しかし地方を訪れる際、天皇が厳密な時間に束縛されずに動ける方法はあった。自分の意思とは無関係に動く交通機関を使わず、歩きたいように歩くことだ。

京都での即位礼と大嘗祭が終わって一年半あまりが経った一九三〇年六月二日、昭和天皇は静岡県の沼津御用邸を出て船と自動車を乗り継ぎ、中伊豆に向かった。湯ケ島尋常高等小学校に着くと背広に半ズボン、運動靴に中折れ帽子という姿に着替え、こうもり傘を持った。そして再び自動車に乗り、天城山隧道ずいどう(旧天城トンネル)の入り口で降りた(『昭和天皇実録』第五)。

ここから八丁池まで、天皇は三時間以上かけて山道を歩いた。雨が降るなか、生物学者でもあった天皇は傘もささずに粘菌(変形菌)の採集に熱中した。前年に和歌山県の田辺で粘菌学者の南方みなかた熊楠くまぐすに会ってから、天皇の採集意欲は高まっていた。

「全く驚き入るの外はない」と徳富蘇峰

半ズボン姿の天皇は、道すがら熱がこうじ、自ら木に登るまでして採集した。同行した内務大臣の安達謙蔵からこの話を聞いたジャーナリストの徳富蘇峰は「全く驚き入るの外はない」と述べ、天皇として他にやるべきことがあるはずだと批判した(『徳富蘇峰終戦後日記』)。

午後2時過ぎに八丁池に着くと、天皇は池に生息するモリアオガエルを観察した。八丁池から戻る途中にも、粘菌採集をやめることはなかった。すべては天皇自身の意思から出た行動だった。

湯ケ島尋常高等小学校で着替えた天皇は、再び自動車と船を乗り継ぎ、沼津御用邸に帰った。時計の針は午後7時40分を指していた。帰着の予定時刻は午後5時45分だったから、なんと二時間近くも遅れたことになる(『昭和五年静岡県御巡幸記録』)。

天皇が地方訪問の途上、これほど予定を無視した行動に出たことはほかになかっただろう。それは自らの宿命に対するささやかな抵抗だったように見えなくもない。しかし時代はもはや、生物学の研究が自由にできる状況ではなくなっていた。翌一九三一年に満州事変が勃発すると、天皇はまた時間通りに地方を回らざるを得なくなる。


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一九五八(昭和三三)年一〇月一八日9時45分、昭和天皇と香淳皇后を乗せた列車が原宿駅を発車し、富山に向かった。列車は群馬県の高崎から信越本線に入り、横川で機関車を付け替えた。横川と次の軽井沢の間は国鉄で最も勾配のきつい区間であり、アプト式の電気機関車が列車の前後に合わせて三両併結された(『昭和天皇御召列車全記録』)。

アプト式というのは、線路中央に敷かれた歯型のラックレールと機関車に設置した歯車をかみ合わせて上り下りする方式のことだ。

機関車を付け替える時間を利用し、車内に駅弁が運び込まれた。同年二月から販売された「峠の釜めし」だった。製造元の荻野屋は、天皇のため特別の釜めしを作った(荻野屋ホームページ)。

昭和天皇よりこの駅弁に長く親しんだのは、毎年夏に軽井沢の千ケ滝せんがたきプリンスホテルで静養した皇太子(現上皇)一家だった。同ホテルの最寄り駅である中軽井沢から帰京する際、釜めしを食べたという(同)。アプト式が一九六三年に廃止されても、横川―軽井沢間で機関車を併結する習慣自体は変わらず、釜めしを買う時間は十分あった。

佐藤栄作も馴染んだ「峠の釜めしや」

軽井沢には政治家の別荘も少なくなかった。その一人が一九六四年から首相となる佐藤栄作だった。佐藤も夏になると軽井沢に出かけたが、ふだんは自動車を使った。もちろん駅弁は食べなかった。

だが一九六六年八月一六日は違った。上野16時50分発の長野ゆき急行「第3信州」に乗ったからだ(『佐藤榮作日記』第二巻)。この急行も横川で電気機関車を併結し、軽井沢に19時27分に着いた。

原武史『歴史のダイヤグラム〈3号車〉 「あのとき」へのタイムトラベル』(朝日新書)

八月二二日、佐藤は「予定を変更して早目に帰京する事とし、同時に列車に変更」して軽井沢17時53分発の急行「第2妙高」に乗った(同)。この急行は横川で電気機関車を切り離し、上野に20時24分に着いた。

どちらの急行も横川でかなりの停車時間があった。その間に佐藤は、自動車ではできない行動に及んだと思われる。峠の釜めしを買い、車内で夕飯にしたのだ。

こう考える根拠は、八月二六日の日記にある。この日、佐藤は上野15時26分発の長野ゆき急行「第2信州」に乗り、軽井沢に向かった。それを記したあとに、「峠の釜めしやとすっかり友達となり旅情をなぐさめてくれる」という一文を加えているのだ。

「すっかり友達とな」るには、それ以前に二回以上は釜めしを買った経験がなければなるまい。そう考えると、移動手段を自動車から鉄道に変えた直近の二回しか当てはまらない。だが九月九日に軽井沢に行くときにはまた自動車に戻ってしまった。やはり旅情よりも機動性を重視したからだろうか。

信越本線横川駅の駅弁売り。「峠の釜めし」は同駅の名物駅弁だ=1970年撮影[出典=『歴史のダイヤグラム〈3号車〉』(朝日新書)]

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