将軍家治の死はほんとうに毒殺なのか? 災害からの生活苦と「とよ坊の悲しい死」が交錯する31回を検証する【べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~ 満喫リポート】31
ライターI(以下I):『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』(以下『べらぼう』)第31回は、将軍家治(演・眞島秀和)の死が描かれる重要な回になりました。『徳川実紀』などの「公的な記録」には、「毒を盛られた」という記載などあろうはずもありません。
編集者A(以下A):600石の軽輩の身から老中にまで昇りつめた田沼意次(演・渡辺謙)の最大の権力基盤は、「将軍家治が後ろ盾」ということ以外にありません。その後ろ盾である家治が亡くなるという事態は、意次の権力基盤が一掃されたことを意味します。
I:家治の嫡男徳川家基(演・奥智哉)の死からの流れを振り返りたいと思います。家基の死は安永8年(1779)2月になります。同じ年の10月に薩摩の桜島が大噴火を起こします。平賀源内(演・安田顕)が亡くなったのは同年12月です。
I:浅間山の大噴火は4年後の天明3年(1783)7月。若年寄の田沼意知(演・宮沢氷魚)が江戸城で殺害されたのは、翌年の天明4年。このタイミングで、江戸に多くの流民が押し寄せたそうです。飢饉で人心が荒廃している中で発生したのが劇中でも描かれた天明6年7月の大洪水です。利根川の決壊による洪水も浅間山噴火による火山灰の堆積によって洪水が起きやすくなっていたせいです。まさにふんだりけったり。災害から派生した生活苦によって人心が政権から離れていくという好例です。
A:そして、将軍家治の死が天明6年(1786)8月。7月中旬からの豪雨が洪水を引き起こしている最中でした。家基の死から7年。まさに激動の日々でした。
将軍家治の死と「醍醐」
家治に供された「田安の醍醐」。(C)NHKI:その将軍家治の死の原因が、側室で家基の生母である知保の方(演・高梨臨)が手ずからつくった醍醐ということが示唆されました。醍醐というのは、現在でいうチーズに似た乳製品のことをいいます。奈良時代にはすでにわが国に伝わっていて、「蘇」「酪」などの乳製品の中でも最上級が醍醐だったといいます。
A:そういえばIさんは以前、平安時代に宇多天皇の愛猫が食べていた「乳粥」を再現していませんでしたっけ(https://serai.jp/living/1011942)。当時、乳牛院という機関があったというのも驚きです。
I:もともと「醍醐」は仏教用語で、最上の教えを意味するそうです。醍醐味という言葉の語源でもあります。平安時代以降、仏教が盛んになり、殺生を嫌って動物性の食べ物をあまり食べなくなったといわれていますが、鳥や魚は食べていましたし、猪や鹿なども折に触れて食べていたようです。宮中には乳牛飼育舎の乳牛院があり、そこで絞った牛乳が毎日、天皇とその家族に配られていたそうです。醍醐や蘇などもそこで作っていたといわれています。今回、田安家が「醍醐」を作る家と聞いて、調べてみたんですが、実際に田安家には醍醐の作り方が伝わっていたようです。
A:ほう。
I:江戸時代には今の千葉県南房総に嶺岡牧という牧場があり、乳牛はそこから江戸に連れてこられて、フレッシュな乳を搾って江戸城に収めていたといいます。田安家も支給された乳から、醍醐を作っていたと思われます。乳製品は非常に高価なものですが、幕府が作っていた白乳酪という乳製品は、寛政年間頃には日本橋の玉屋という店で取り扱いがあり、庶民の間にも出回ったようです。
A:『べらぼう』劇中では、生キャラメルのような見た目で美味しそうでした。醍醐といえば、1980年のNHK水曜ドラマ『風神の門』では竹脇無我さん演じる真田幸村が配所の九度山で「醍醐」をつくる場面が描かれていたのを思い出しました。大きな鍋に乳を入れ、ものすごく時間をかけて煮詰めていたシーンが、なぜか印象に残っています。
I:なにせ醍醐味ですからね。それはそれは時間がかかったのだと思われます。いったいどのような味がしたのか、気になるところです。
A:すこし脱線しますが、平安貴族が好んで食した乳製品ですが、武士の世になってから江戸時代に入るまで、廃れます。面白いのは、現在、「牛乳発祥の地」が静岡県下田市にあることです。幕末に初代駐日領事として下田の玉泉寺に赴任したタウンゼント・ハリスが、病気になり牛乳を飲みたいと所望して、地域の人が用意したのだそうです。昭和30年代に当時の農林大臣河野一郎によって「牛乳の碑」が建てられますが、そこには「ハリスが十五日間に飲んだ九合八勺の牛乳の代価が一両三分八十八文。之は米三俵分に相当したといいますから当時牛乳が如何に高価で貴重なものであったかが分かります。このことが日本に於ける牛乳売買の初めといわれます」とあります。
I:実は、嶺岡牧跡の一部には現在、「千葉県酪農のさと」があるのですが、同所の2019年のシンポジウムでは、嶺岡の牧では乳製品が作られていて、江戸や福井、金沢、京都、大坂など、全国14か所で販売されていたようです。日本橋の玉屋も売っていたといいますが、売られていたのは乳製品で、牛乳までは普及していなかったということですね。
A:劇中では、「田安家と醍醐」というトリビア風なエピソードを交えて、家治の死を描いたということになります。視聴者の方はどう受け止めたでしょうか。
時期将軍家斉を枕元に呼ぶ家治。(C)NHKI:ということで、家治は病床につきます。このころ家治は満年齢で49歳。
A:枕元に、世子の家斉を呼んで、「意次はまとうどの者」、つまり正直な人間というふうに伝えます。第9代将軍家重の遺言と同じことを家斉に伝えたわけです。暗に自分が死んでも田沼意次をきちんと処遇するようにといっているわけですね。そして、治済(演・生田斗真)に対して、「天から見ている」と、力を振り絞って訴えます。
I:一昔前までは「お天道さんが見ている」というのが、自身を律する観念の役目をはたしていましたが、家治は同じようなことを治済に強調したわけですね。
A:徳川将軍家の代替わりを概観すると、第7代将軍家継が6歳で亡くなって将軍家の流れが絶え、吉宗が紀州から将軍家に迎えられます。このとき紀州から新たに人材が入ってきたので雰囲気が大きく変わったのだと思いますが、家治から家斉の代替わりもまた時代の空気を激変させたという意味では、吉宗への代替わり以上の衝撃を幕府内に与えたのではないかと思っています。
I:日本の歴史にとって大きな大きな転換点だったわけですね。
A:第11代将軍を継承した家斉は以降半世紀にわたって権力者として君臨します。半世紀ですよ。50人以上の子をなした「子だくさん」ということは知られていますが、家斉の業績をすぐにあげられる人はいるでしょうか。
I:……。
A:厳しくいえば、「停滞の時代」が半世紀も続いてしまった、といったら言い過ぎでしょうか?
【長谷川平蔵と松平康福。次ページに続きます】