第5回日経アジアアワードにインドのビギャンシャーラ・インターナショナル

日本経済新聞社は第5回「日経アジアアワード」の受賞者を教育系の非営利団体「ビギャンシャーラ・インターナショナル」に決めた。インドの農村部で恵まれない若者、特に女性を対象にSTEM(科学、技術、工学、数学)教育の機会拡大に取り組んでいる。世界中のSTEMの専門家と学生をつなぎ、キャリア支援などを提供。女性の社会的な地位の向上も目指す。

「人生に恐れるべきことなど何もない。あるのは理解すべきことのみだ」

ヒマラヤ山脈の麓の寒村に生まれた数学好きのダルシャナ・ジョシ氏は、キュリー夫人の言葉と生き様に背中を押されて生きてきた。同夫人はノーベル賞を女性で唯一2回受賞した人物だ。

同団体の共同創設者であるジョシ氏はインドの女子大学などで学んだ後、英ケンブリッジ大大学院で物理学の博士号を取得した。大学院生組合の会長にも選ばれた。権威主義的な学校側との激しい交渉に挑み、留学生らの権利の保護に奔走した。

ジョシ氏は性別や家庭環境に教育が影響されない「科学教育の民主化」を標榜する。

特に地方での教育の重要性を強調する。インドの人口の半数以上は農村部や辺境地に暮らすからだ。都会から離れた地域だからこそ気候変動や医療環境の遅れなど21世紀の問題に直面する。「直接経験する人々の力が科学の発展に必要だ」と力説する。

だが地方では実践的な科学教育へのアクセスが困難で、STEM分野でのキャリア形成の機会は限られる。「女子には教育は必要ない」という価値観が残り、家族の協力や理解を得るのも望み薄だ。

ジョシ氏が同団体を2019年に正式に設立した背景にはこうした地域の実情がある。夫のヴィジェイ氏とともに研究者としてのキャリアを断ちインドに戻った。「社会的弱者や恵まれない家庭環境の女性たちの中にこそ新しい才能を発掘したい」と話す。

ジョシ氏はSTEM教育の実態を確認しようと、14都市の近郊にある農村部を夫とともに回った。

教師2000人と面会し、女子生徒や学生と言葉を交わした。「性差は明らか。男女混合の教室で女子は目立たないように振る舞う。彼女たちは家で母親や姉妹が誰かに質問する姿すら見たことがない」。多くの中学校で女子生徒が数学を学ぶのを放棄させ、家庭科を選択させる制度を持つ地域もあったという。

そこで取り組んだのが「Physical(物理的)」と「Digital(デジタル技術)」を融合した「Phygital(フィジタル)」と呼ぶハイブリッド型の教育だ。例えば遠隔地にはオンラインで授業をする。その地域の言葉を話すスタッフが授業を行い、キャリアプランを考えて並走するコースも整備した。ネット授業だけでは効果が薄いため、実際に見て触ってもらう機会も必要に応じて提供する。

学生の費用負担はゼロにしている。企業の社会的責任(CSR)の推進を目的とする財団や、個人の寄付によってまかなっている。

女子大生には国内外の科学者や企業経営者、エンジニアらを「メンター(指導役)」として紹介する。メンターはアドバイスをしたり専門知識を提供したりするほか、キャリアの相談相手になる。

インド中部テランガナ州では47の大学に通う約2000人の学生と90人以上のメンターをつなぐ。学生は「指定カースト(SC)」や「指定部族(ST)」などに位置づけられるコミュニティーの出身だ。メールアドレスを初めて持った学生が約7割に達したという。

ジョシ氏は30年までに年10万人の女子学生の支援を目指す。実現には「1万人のメンターが必要」と話す。学生への支援を充実させようと、夫は人工知能(AI)を活用して自然な言葉で対話できる自動応答プログラム(チャットボット)を開発している。24時間アクセス可能だ。

自分たちの活動をさらに知ってもらおうと農村部の学生らを対象に全国の高校や大学でワークショップを開く。

「希望と志。この2つが我々の教えです」とジョシ氏。物理や数字に魅せられた女性に実現可能な選択肢を示し、キャリア形成の目標を具体化できるロールモデルをどれだけ提供できるか問われる。

「いつか教え子がノーベル賞を取れれば素晴らしい」と夢は膨らむ。その夢と同じくらい、地域社会で活躍する女性の出現も心待ちにする。気候変動への適応に取り組んだり、野生動物と人間の軋轢(あつれき)を持続可能な形で解決したりするために起業してくれることを期待する。

女性の理系人材が「自分の居場所」を見失うことのない社会の実現も夢見る。ジョシ氏の視線は他のアジアの女子学生をより高みに導くための世界展開も見据えている。(ニューデリー=岩城聡)

インド西部プネにある「ビギャンシャーラ・インターナショナル」の本部を訪ねると室内は色とりどりのペイントが施され、柔らかな陽光が差し込んでいた。近隣の大学に通う理数系の学問を学ぶ女性らのたまり場だ。壁際にはノコギリやペンチ、ハンダごてが置かれ、机で配電盤や顕微鏡と格闘する女性の姿は新鮮だ。

共同創設者のダルシャナ・ジョシ氏はインド北部ウッタラカンド州で生まれた。両親は山岳農業に従事。最寄りの病院まで40キロメートル離れた辺境の地で過ごした。

ジョシ氏が7歳の時、父親は子どもにより良い教育を受けさせるため首都ニューデリーへの移住を決断した。ジョシ氏は「成績優秀者として選抜された。奨学金で教育レベルのより高い公立学校に通い始めたことで人生が大きく動いた」と話す。小学6年生で英語のアルファベットを習ったが、実際に英語を使って初めて話したのはデリーの女子大に入ってからだという。

2歳の長女は機械工具に夢中だ。「いずれ『バービー人形』をプレゼントされるでしょうね」と話す。「いまは人形をもらう男の子はいないけど、男の子に共感力をつけさせたいなら人形もあげるべきでしょう」と語る。性別というロールモデルを取り除くことは、行動や選択肢の幅を広げる。そして男女ともに多様な働き方やキャリア形成につながると信じている。

第5回日経アジアアワードはインドで女性のためのSTEM(科学、技術、工学、数学)教育普及に取り組む非営利団体「ビギャンシャーラ・インターナショナル」がアジア各国・地域から寄せられた96件の推薦の中から受賞団体に選ばれた。

同国では人口の半数以上が農村や遠隔地に暮らし、実践的なSTEM教育を受ける機会が限られる。なかでも、STEM分野で働く女性は15%未満で、教育機会の均等やキャリア開発支援が課題となっている。そんな窮状に手を差し伸べたのが2019年設立のビギャンシャーラ・インターナショナルだ。

STEM教育格差を解消するため、実践的な科学ラボの設置とオンライン教育を組み合わせたハイブリッド教育モデルを展開。学生と世界中のSTEM専門家とをつなぎ、キャリア支援やメンタリング、リーダーシップ研修を提供している。特に女性支援に注力し、経済的支援や地方政府への政策提言も行いながら、女性のSTEM分野への参画促進と社会的地位向上を目指している。

ハイブリッド教育を活用し、地域に根ざした公教育改革を推進する同団体のプログラムは、インド国内で2030年までに年10万人へのリーチを目指している。また、世界的にみても、南アジアやアフリカといったデジタルやジェンダーの面で格差に直面している地域にも適応が可能である点が革新的かつ持続可能であると評価できる。

現在の社会情勢を見渡せば人工知能(AI)など先端技術の進展があらゆる産業の在り方に変化を迫り、人々の暮らし方にも大きな影響を与えている。STEM教育の重要性が高まるなか、ジェンダー平等を確保しながら、デジタルや科学のリテラシーをはぐくんでいこうとする同団体の取り組みが各国に広がっていくことを願ってやまない。

日経アジアアワードは今回で5回を数え、初回のエビ培養肉ベンチャーから、生理用品の企画・製造・販売のスタートアップ、地方の女性を支援する電子商取引プラットフォーム、竹製住宅を建設する新興企業、そしてSTEM教育普及支援と多彩な顔ぶれがそろった。受賞団体の拠点国もシンガポール、インド、インドネシア、ミャンマーへと広がっている。

審査を重ねる中で本賞に推薦される団体および個人の活動の広がりと質の向上を強く実感している。本アワードの真価も問われており、さらなる地域的広がりや活動内容の多様化を期待したい。

最終選考に残った候補はいずれも甲乙つけがたく、各国で人類の課題解決に挑む若い世代の強い意欲を感じた。今後も日経アジアアワードのアドバイザリーボード委員長として多くのイノベーションの担い手と出会うことを楽しみにしている。

日本経済新聞社が2021年に創設した表彰事業。アジアの多様な価値観を踏まえた「アジアの視点」で、アジアや世界の変革を促して自由で豊かな経済社会の実現を後押しする活動の担い手を年1回選び、毎年12月に発表する。

対象分野はビジネス、調査・研究、技術開発、社会・芸術活動などで、内外からの推薦(他薦のみ)を日経の選考委員会やアジア地域の有識者でつくるアドバイザリーボードが審査して「アジア発のイノベーション」を選ぶ。

東・東南・南西アジア、太平洋地域で活動を開始し、同地域を拠点に置く個人や団体を対象としている。日本人の個人および日本人のみの団体は除く。受賞者への副賞は500万円。

委員長=御手洗冨士夫・キヤノン会長兼社長最高経営責任者(CEO)

メンバー=ブラーマ・チェラニー・インド政策研究センター名誉教授▽春名展生・東京外国語大学長▽飯島彰己・三井物産顧問▽木谷哲夫・京都大学イノベーション・マネジメント・サイエンス特定教授▽北岡伸一・国際協力機構(JICA)特別顧問▽中尾武彦・元アジア開発銀行(ADB)総裁▽ソムギャット・タンキットワニッチ・タイ開発研究所所長▽ジョン・ピゴット・豪ニューサウスウェールズ大学教授▽兪明希(ユ・ミョンヒ)・元韓国通商交渉本部長▽ジュン・ヤン・ナンヤン・ビジネス・スクール(シンガポール)学長

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