ヨーロッパに「ミュンヘンの教訓」という幽霊がでる:繰り返される歴史の誤用

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ウクライナ戦争の和平が、アメリカの仲介により、少しずつ進んでいます。その際、焦点になっているのが、ウクライナの領土をロシアに「割譲」することです。プーチン大統領は、ドンバス地方から全面的にウクライナが撤退する代わりに、ロシアは現在の前線において戦闘を停止する準備があると示唆しています。

これに対して、アメリカのJ. D. ヴァンス副大統領は「ロシアがこの3年半にわたる紛争で初めてトランプ大統領に対して大きな譲歩を行った」とみなし、プーチンは、和平後のウクライナが「領土保全」と独自の政府を維持すること、さらに同盟国からの安全の保証を受けることを受け入れたと指摘して、これを前向きに評価しています。

その一方で、このような試みは、ヒトラーにチェコスロバキアの一部を譲ってしまった「ミュンヘン会談の宥和主義」という過ちを繰り返すことになるという批判が沸き起こっています。チェコ政府のトマーシュ・コペチュニー氏(ウクライナ復興担当代表)は、「ヨーロッパがこれを(ナチス・ドイツに譲歩した)第二のミュンヘンやヤルタの瞬間にしてしまわないことは極めて重要だ」とけん制しています。

ここで再度「ミュンヘンの教訓」が登場しました。ウクライナ戦争に関連して、この歴史が引き合いに出されるのは、これで何回目になるでしょうか。

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タカ派の道具にされるミュンヘンの教訓

歴史の教訓が正しく使われれば、見通すことが難しい現状を明らかにしたり、妥当な政策立案に役立ったりしますが、間違って使われたら、現実問題への誤診になるだけでなく、ここから導かれる「処方」も解決につながらないどころか、かえって悪化させてしまうでしょう。

ウクライナ戦争の和平を考える際、ミュンヘンの宥和を持ち出すことは、歴史の誤用であると言わなければなりません。なぜならば、この教訓の核心にある「ミュンヘン会談での妥協がヒトラーの侵略を助長した」というストーリーは、かなりアヤシイからです。

したがって、実際には存在しなかったであろう歴史物語から今の状況を推察することは賢明ではありません。こうした歴史のアナロジー(類推)は、むしろ「相手に弱みを見せてはいけない」という自分の信念や思い込みを正当化するためにしばしば使われるのです。

ランドール・シュウェラー氏(オハイオ州立大学)は、「このアナロジーは指導者をタカ派で過度な競争的政策へと誤導したり、そうした政策を正当化したりするために意図して使われて、大衆を誤解させるのだ」と注意を促しています。

ミュンヘン宥和をめぐる「神話」

1938年の「ミュンヘン宥和」の広く信じられている1つの教訓は、ヒトラーが増長して冒険的行動に走ったのは、チェンバレンがヒトラーの現状打破行動をミュンヘン会談で容認したからだというものです。すなわち、ヒトラーはイギリス(そしてフランス)が「弱腰」であり、不当な要求をつきつけても、それを受け入れるだろうと「学習」した結果、チェコスロバキア全土を占領するとともに、ポーランドに侵攻したというストーリーです。

ミュンヘンに集まった英仏独伊の首脳Wikipediaより

このロジックを裏づけるとされる1つの歴史証拠は、ヒトラーの「われわれの敵は虫けらだ。わたしは彼らをミュンヘンで見た」という発言です。はたしてヒトラーは、イギリスやフランスの指導者があまりに優柔不断で臆病だから、ドイツに対して戦争で対抗することができないだろうと判断して、東欧へと勢力を拡大したのでしょうか。

この重要な難問に挑んだのがダリル・プレス氏(ダートマス大学)です。かれは自著『信ぴょう性の計算―どのように指導者は軍事的威嚇を評価するのか―』(コーネル大学出版局、2005年)の第2章「『宥和危機』―1938-39年におけるドイツによるイギリスとフランスの信ぴょう性の評価―」において、この問題を詳しく分析しています。上記の疑問に対するプレス氏の答えは「ノー」です。

確かに、ヒトラーは英仏の軍事的威嚇を一貫して低く評価していましたが、その理由は、イギリスやフランスが、ドイツのラインラント進駐やオーストリア併合、ズデーテン地方の割譲において、実力で阻止しようとせず妥協を重ねたことから、英仏が弱腰であると判断してつけあがったわけではなく、バランス・オブ・パワーや利益の観点から、両国の脅しの信ぴょう性を判断して行動したということです。

少し長くなりますが、かれの分析を以下に引用してみましょう。

「同盟国(英仏、引用者)の信ぴょう性についてのドイツの議論と行動は、ほとんど常にパワーと利益についてだった…イギリスやフランスの過去の行為やそれが示すところのイギリスとフランスの将来の行動についてではなかった…これらの議論において、ヒトラーは、これまでのイギリスやフランスの優柔不断さの例を指摘することで、かれの侵略的政策を支えることができたはずだが、かれはパワーと利益に議論の焦点を当てたのだ…ズデーテン危機の後でさえ、ヒトラーはイギリスとフランスの信ぴょう性を主にバランス・オブ・パワーに基礎をおいて評価しつづけた。1939年8月14日、ヒトラーは上級軍事顧問に会い、イギリスはポーランドを防衛するために戦うことはないと納得させた…ヒトラーはその理由をこう説明した。『イギリスは、大きくなり過ぎた自身の帝国ゆえに、過剰な重荷を背負っている…フランスは新兵の補充に事欠いており、装備が貧弱で、あまりに多くの植民地の負担がある…フランスとイギリスがとれる軍事的措置は何か。ジークフリート線への突入はあり得ない。ベルギーとオランダを通過する北方への展開は迅速な勝利をもたらさない。このどれもポーランドの助けにはならないだろう…これらすべての要因はイギリスやフランスが戦争を開始することへの反駁なのである』」。

(同書、69-71ページ)

ヒトラーは、ドイツ参謀本部の上級将校たちとは異なり、イギリスやフランスの軍事力について、一貫して低く評価していました。たとえば、ミュンヘン危機において、ドイツの将軍たちは、ドイツのチェコスロバキアへの侵略がフランスとイギリスの軍事介入を招き、ドイツを敗北へと追い込むことを深く懸念していました。

他方、ヒトラーはこうした見方に反対でした。ドイツはチェコスロバキアを一撃で倒して既成事実化することになり、こうした迅速な勝利こそ戦争の拡大を防ぐことになると、かれは考えていました。その後、ナチス・ドイツはチェコスロバキアを征服して、シュコダの兵器工場を接収しました。これによりドイツは当時のヨーロッパにおける最大の兵器工場を手に入れて、大量の武器の生産が可能になりました。

このことはドイツの国力を飛躍的に向上させました。こうしたバランス・オブ・パワーの楽観的な計算こそが、ヒトラーを大胆な冒険的拡張行動に走らせたのです。

要するに、侵略を抑止するための威嚇の信ぴょう性は、相手国が過去に対決姿勢で臨んできたのか弱腰だったのかといった行動に対する評価ではなく、バランス・オブ・パワーの認識に左右されるということです。

ヒトラーを大胆にしたパワー

ヒトラーの「虫けら」発言は、どのように解釈すればよいのでしょうか。歴史資料は複数の解釈ができるために、「動かぬ証拠」として扱うことは難しいものです。

これはヒトラーがイギリスやフランスの指導者を見下していた証拠になるのかもしれませんが、プレス氏は、これは、かれの主張の中のささいな一部分であるとみなしています。ヒトラーの「虫けら」発言は、ソ連の意図と行動を分析する議論の間に挟まれた、1つの文章に過ぎないということです(同書、73-74ページ)。

他方、国際関係研究の重鎮であるアレキサンダー・ジョージ氏とドイツ政治外交史の第一人者であったゴードン・クレイグ氏は、『軍事力と現代外交』(有斐閣、1997年)において、イギリスやフランスの宥和政策がヒトラーを大胆にしたことを示唆しながら、「虫けら」発言に触れています(『軍事力と現代外交』84-85ページ)。

確かに、イギリスとフランスの宥和的姿勢が、ヒトラーの行動に全く影響しなかったとは言えないでしょうが、因果効果の相対的な重みをつけるとすれば、バランス・オブ・パワーに分があるように、わたしは思います。

要するに、強力な国家になりつつあるドイツからすれば、英仏など「虫けら」のように弱い存在であるとヒトラーは言いたかったのでしょう。そうであれば、この発言はドイツが英仏に対して優勢であるという、ヒトラーの分析の表れと解釈できます。

宥和政策を避けるべき条件

宥和すべきかどうかは、それが「どん欲な現状打破国」を飛躍的に強くしてしまうかどうかに依存します。もし宥和政策が相手を手に負えない強大なモンスターにしてしまうのを助けるのであれば、避けるべきでしょう。この点について、プレス氏はこんな見解を述べています。

「宥和はナチス・ドイツとの取引にとって好ましい政策だったのだろうか。答えはノーである。宥和が同盟側の信ぴょう性を粉砕したわけではないが…宥和は、ドイツがパワーの頂点に達するまで戦争を引き延ばしてしまったことにより、高くついた」(同書、77ページ)。

残念ながら、ミュンヘンでの宥和は、ナチス・ドイツが強大なバケモノになるのを助けてしまいました。ここでのポイントは、繰り返しますが、ヒトラーがミュンヘン会談での英仏の弱腰の姿勢を学習して侵略に大胆になったのではなく、チェコスロバキアの兵器庫を得て強くなった結果、さらなる野心的な行動に自信を持ったということです。

ミュンヘン会談から85年以上が経過した現在では、国力を高めるのに必要な最新の兵器などを生産する高度な施設は世界に分散しています。ロシアがヨーロッパ諸国を広く侵略することを助長する強力な兵器産業が、ウクライナに存在するわけでもありません。したがって、仮にロシアがウクライナの国土をさらに占領したとしても、それだけでナチス・ドイツのようにパワーを劇的に強化することにはならないでしょう。

むしろ、今後の政策課題は、侵略が起こりにくい「安全保障レジーム」をヨーロッパにどう構築するか、ということです。ミュンヘンの教訓は、このことについて何も教えてくれません。これについての正しい歴史の教訓は、ナポレオン戦争後に構築された、欧州列強が互恵主義により紛争を防ぐ「ヨーロッパ協調」です。

例外としてのヒトラー

「ミュンヘンの教訓」という歴史は、「タカ派」が主張を正当化するのに都合がよいので、われわれは、この話が出てきた際には注意すべきです。

国家の意思決定における歴史の誤用を研究してきたジェフリー・レコード氏(航空戦大学)は、「純然たるヒトラー的脅威は稀であることを考慮すれば、ミュンヘンのアナロジーは脅威を正確に描くのに使われるより、誤用される方がはるかに多い」と指摘するとともに、ヒトラーは歴史に類を見ない戦争に執着する抑止できない「外れ値」のような存在だったので、スターリンや毛沢東、サダム・フセインといった独裁者でさえ比較の対象にならず、国家安全保障の議論において、政策エリートは「ミュンヘンの教訓」を持ち出すのをやめるべきだと主張しています。

このような「ヒトラー例外説」は、デーヴィッド・ウェルチ氏(ウォータールー大学)もおおむね支持しています。かれは「ヒトラーは戦争を欲し、その見込みにスリルを見出し、リスクを取ることを楽しみ、そして明らかに侵攻と支配から大きな満足感を得ていた」と分析しています(『苦渋の選択―対外政策変更に関する理論—』千倉書房、2016年〔原著2005年〕、97ページ)。

歴史家のD.C. ワット氏も「彼(ヒトラー)を抑止できるものは何もなかった」と言っています(『第二次世界大戦はこうして始まった(下)』河出書房新社、1995年〔原著1989年〕、427ページ)。

もし、これらの政治学者や歴史学者のヒトラーへの見立てが正しいとするならば、第二次世界大戦後、ヒトラーに匹敵する侵略者が次々と登場するはずはありません。例外は、ごくまれにしか存在しないという意味なのですから、それが頻繁に出現するという主張と矛盾します。にもかかわらず、われわれは善悪論や正義論に深く染まると、こうした論理のおかしさに気づきにくくなってしまいます。

わたしはウクライナを侵略したプーチン大統領を擁護するつもりはありませんが、かれをヒトラーの再来だとみなしたり、ウクライナ戦争の和平への動きを「ミュンヘン宥和」を持ち出して否定したりすることは「歴史の誤用」だと思います。ここでの正しい歴史の教訓は「ヨーロッパ協調」です。

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