「最期まで撮れ」…がんと闘う俳優・斎藤歩に密着取材 泣きながら撮影した“その時”
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6月11日。 俳優で演出家・劇作家の斎藤歩(あゆむ)さんが60歳でこの世を去った。
4年前、尿管にがんが見つかり、舞台に立ちながら闘病を続けていた。
その斎藤さんの「最期」を撮影したテレビディレクターがいる。北海道テレビ(HTB)報道情報局の沼田博光さん(61)だ。 学生時代からの友人でもある斎藤さんに1年4カ月の間密着し、制作したのがドキュメンタリー番組「生ききる〜ある俳優夫婦のダイアローグ〜」(テレビ朝日・HTBなどで放送予定)だ。
死を達観し、残された人生を“生ききろう”とする斎藤さんに対して、同じく俳優である妻・西田薫さん(59)は現実をなかなか受け入れられない。 だが病状が悪化するにつれ、斎藤さんの中で思わぬ変化が生まれていく…。
時には涙を流しながらカメラを回すこともあったという沼田さん。 親しい人の「生と死」に向き合った密着取材の裏側を語ってくれた。
午前4時、突然アラームが鳴った
「撮影したというよりは、撮影させられたという感じでした」 斎藤さんが亡くなった“その時”について、沼田さんは振り返る。
「自分ももう涙でぐちゃぐちゃで何が映ってるかわからない。ピンボケとかやっちゃってるかなと思ったら全部きれいに撮れていて、驚いたぐらいです。もうこれは僕の力じゃなくて、歩さんが(横にいて)演出をして、カメラ回せ!っていう感じだったのかなと思いましたね」
6月11日の未明。夜勤明けの沼田さんは、危篤状態だった斎藤さんの自宅にカメラを持って駆け付けた。 午前4時前、ちょっとした異変が起きる。
「アラームが鳴ったんですよ、突然。解熱鎮痛剤を自動で体内に送り込む機器があって、そのアラームだったんですけども、看護師さんもなんで鳴ったかわからない。誤作動じゃないかということで、じゃあちょっと休みましょうかと私は奥に戻るんですが、眠れるわけもなくて、なんとなくカメラをいじってたらすぐ「あゆむ、あゆむ」って(妻・薫さんの)声が聞こえたんで慌てて行ってみたら、『息してる?』って」
夫の名前を呼び続ける薫さん。 沼田さんは泣きながら、その「最期」を撮り続けた。
後になって思う。 「あのアラームが多分、そろそろ俺は行くぞ、沼田、スタンバイしろっていうことだったのかと。寝てるんじゃねえぞ、ちゃんとカメラの電源入れろ、カメラを回せっていう合図だったなって。そのくらい何だか自分で撮った気がしなかったんです」
沼田さんが彼と出会ったのは20歳の頃。 小樽商科大学の演劇部に所属していた沼田さんは、北海道大学演劇研究会の定期公演で初めて斎藤さんの舞台を見た。
衝撃だった。
「まあびっくりしたんですよね。本当にかっこいいなと。手足が長くてひょろっとしてて眼光が鋭くて、もうオーラが違うんですよね。視線を持っていかれる…ほかの人がセリフをしゃべってるのに目線だけは斎藤さん、みたいな。それが最初です。もう強烈な印象でしたね」
その後、大学合同の演劇イベントなどで交流が生まれたふたり。ただし… 「友情とかそういうのではないですね。本当にすごい人がすぐ近くにいるっていう感じで。憧れというか恐れ多いというか。特別な人なんですよ」
東京に出た斎藤さんはテレビや映画にも活動の場を広げる。 北野武監督の「アウトレイジビヨンド」や細田守監督のアニメ映画「サマーウォーズ」などにも出演した。
一方、テレビ制作者の道に進んだ沼田さん。 斎藤さんに番組のナレーションを依頼するなど、仕事での接点が生まれるようになる。
「私が映像の世界でやっていることをすごく喜んでいて、戦友、戦友と言ってくれて。お互いに表現者として頑張ってるよな、ということで認めてくれていましたね」
その斎藤さんががんを患い、沼田さんが密着取材を申し込むことになった。
「一番困ったのは…がんになった親しい人に、まずどう話しかけて、どう向き合えばいいのか。全く知らない他人だったらまだ仕事と割り切れる分、取材しやすかったですよね。でも今回は、『どう体調は?』というところから入るわけですよ。歩さんの体調がとても心配になる。一方でディレクターとしての距離感を保ちながら取材しなきゃいけない」
ドキュメンタリー番組「生ききる」は取材交渉をそのまま撮影したシーンから始まる。 場所は斎藤さん行きつけの居酒屋だ。
斎藤さんは沼田さんに、「いつまで撮ろうとしてるの?」と問いかける。そして「多分、この病気は死ぬ病気だと思っている」と告げるのだ。
この問いに対し、沼田さんはこう答えた。 「いつまでということは決めない。あなたが『ここまでにしてくれ』というところまで撮らせてくれと。『ここから先はもう勘弁してくれ』となったらもう撮らないから。約束したのはそれだけですね」
番組タイトルは早々に「生ききる」に決まった。 取材を始めて間もなく、斎藤さんに自身の「死生観」を尋ねる機会があった。
人の生と死をテーマにした脚本を多く書いてきた、斎藤さんの答えは…。
「死んだ後に仏さん(になる)とかなんとか、あるかもしれないけど俺は学んでないし、宗教という授業は義務教育の中になかったし…。だから、死んでそこから先は何もない、無だと思っている。死んで終わりなんだ」
そして、その言葉を口にした。 「生ききるっていうこと。生ききる。死っていうのは終わりなんだけれども、死んだらああなろうと思って生きてるんじゃなくて、死ぬ時こうしようと思って生きてるんじゃなくて、生きてる、終わる、っていうだけのことなんじゃないかな」
話は再び去年の2月、居酒屋での取材交渉に戻る。 斎藤さんから「俺の何を撮りたいの?」と聞かれた沼田さん、「あなたの変化と矛盾が撮りたい」と答えたのだという。
「『あなたはこの後、何かしらの変化をするんじゃないかと思う。今は死を受け入れて覚悟して、もう俺の中でいろんな整理がついたんだ、みたいに言っているけれど、それは変化するんじゃないか。そして言っていることとやっていること、作品でうたっていることと自分のことで矛盾もあるんじゃないか。そういうことがあるならそれを撮りたいと思う』と言ったら、『おお、それはそうだな』って言ったんですよ」
とはいえ沼田さん自身、「変化」が撮れるとは思っていなかった。 斎藤さんが完全に病を受け入れているように見えたからだ。
「達観していました。『不安はちょっとあったけれど、それはもう終わってるよ』と言われまして。周りが腫れ物に触るようにしちゃうんですけど、そんなことやめてくれ、普段通りでいいよ、という感じでした。なので、この人に限ってはもう達観したまま最期を迎えるんだろうと思っていましたね」
だが取材を始めて1年が経つ頃、斎藤さんは思わぬ「変化」を見せる。 きっかけは俳優である妻・西田薫さんが公演のために約4カ月間、不在になったことだ。 「(普段は)べらんめえ調というか、奥さんに対しても立場が強くて『俺は一人でいても全然平気
』と言っている人が、『沼田と話してて、こんな気持ちで俺、泣くなんて変だよな』とか言いながら涙を見せたことがあって…。この人がこんな風になるなんて、と僕はとても驚いたんですね」
番組では、斎藤さんがひとりきりでレトルトカレーを作り、食べるシーンがある。 その姿は弱々しい。
5月に入り、薫さんが戻ってきた時には、既にひとりで歩くのが困難になっていた。 薫さんに身の回りのことをやってもらいながら、斎藤さんはしみじみと口にする。
「こんなにこの人の世話にならないと『生ききる』なんて言えねえんだって。偉そうに『生ききる』なんて言ってるけど、わかった、こんなに人の手に頼ってなきゃ生ききれないんだって」
斎藤さんに訪れた「変化」。 妻・薫さんにどれだけ支えられていたかに気づき、カメラの前で感謝の言葉を口にする。心を打たれるシーンである。
一体、いつまで撮るのか? 出演交渉時に斎藤さんが投げかけた問いは結局、斎藤さん自身によって答えが出されることになった。
4月。容体が悪化して入院した斎藤さんを撮影した後、沼田さんが尋ねた。 「まだ撮影していても大丈夫ですか?」
すると斎藤さんはベッドに横になったまま、はっきりした声で「最期まで撮れ」と言ったのだった。
「あんなことを言い出すとは思わなかった。横で薫さんもびっくりしていました」(沼田さん) 斎藤さんの言葉は、さらにこう続いた。
「そんなドキュメンタリー、なかったんじゃないか」
沼田さんはその思いを受け取り、“最期”まで撮りきった。 ひとりの俳優が亡くなるまでを追い続けた、正にこれまでなかったようなドキュメンタリーができあがった。
「耳元でね、『お前、撮らせたからにはわかってんだろうな』って言われてるような気がするんですよ。ちゃんと形にしろよって言われていると思っています」
がんで余命を宣告され、それでも脚本を書き、演出し、俳優として舞台に立って、多くの人に「生ききる」姿を見せ続けた斎藤さん。 番組を通して、そのエネルギーを感じてほしいと沼田さんは願う。
「与えられた残りの『生』をどう自分らしく生きるか、考えて実践した人。元気というか、エネルギーをもらえたり刺激をもらえたりする、そういう人だったと思うんですよ。余命がいくつだからそこで終わりではなくて、その間にどんなことをしてやろうかっていう前を向いた生き方、そういう心の向け方もありますよということが、少しでも伝わったらいいんじゃないかと思っています」