「陸上がダメになる」 大学VS実業団で“嫌われ役”全うした青学大・原晋監督の危機感「だから、真剣に戦う」

エキスポ駅伝後、取材に応じた青学大・原晋監督【写真:柳瀬心祐】

エキスポ駅伝

 男子トップチームが参加する「大阪・関西万博開催記念 ACN EXPO EKIDEN 2025」(エキスポ駅伝)が16日、大阪市内の吹田市万博記念公園〜関西万博会場前(7区間54.5キロ)で初開催された。実業団と大学が史上初めて相まみえた大会。箱根駅伝王者の青学大は大学勢4番手の7位だった。大会前から厳しい発言で注目を求めた原晋監督。“嫌われ役”を全うした真意は、競技普及を願ってのことだった。(文=THE ANSWER編集部・浜田 洋平)

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 表彰式を終え、原監督は一番に囲まれた。15人ほどの記者への第一声は「楽しかったですね」。続けて強調した。

「まず何度も言いますが、この大会を開催していただいたことに本当に、本当に感謝したいですね。御堂筋のど真ん中を走っていくわけです。係の皆さんのおもてなしが凄いなと思いました。それは大前提。沿道も箱根駅伝を思い出すような人垣で素晴らしかった」

 1区からトヨタ自動車、GMO、駒大とレースをつくる展開。しかし、全日本実業団対抗駅伝(ニューイヤー駅伝)3位のトヨタ自動車に独走を許した。エース区間3区をハーフマラソン日本記録保持者の太田智樹が、4区をサムエル・キバティが快走。早々と勝負を決める独走を見つめた名将はモニターの前で呟いた。「こんな区間配置だと視聴率下がるぞぉ」

 区間順位で一度も首位を譲らぬまま2時間32分48秒で優勝。「強かったと思います」と原監督は潔く認めた。自チームは大学勢4番手の7位。大会前から育成、競技普及の観点で実業団の外国人起用に苦言を呈してきた。レース後も「トヨタさんはしっかりと外国人も使うし、太田くんもいるし」と恨み節で笑いを誘ったが、危機感から来るものだった。

 高校生のスカウト活動で地方大会へ足を運ぶと、少子化の影響を痛感する。「10年前と比べて本当に人がいない。選手も、お客さんも」。街を歩いても「若者がいない」と驚いた。

「その少ない若者が陸上やサッカ ー、野 球のどれを選ぶのか。我々は選んでいただけるような、凄く魅力のあることをしていかないといけない。みんなから敬遠されると、陸上がダメになる」

「大谷翔平は世界No.1。日本人ですよ。駅伝をやりたいという文化を…」

 だから、発言で注目を煽った。大阪で55年ぶりの万博、史上初の大学VS実業団の大会は絶好機。トップ選手の出場を求め、煙たがられても外国人の起用にあえて釘を刺した。

 真意を読み取らず、揚げ足を取って批判する人もいる。しかし、盛り上げに必要なものは「真剣に戦うこと」と声を大にした。

「スター選手がこの場で真剣に戦うこと。スポーツは真剣なほど人を惹きつけると思うんです。だから、陸上界のトップランナーが実業団と大学の対抗戦に対してより真剣になること。強化と普及の両方があるんだという認識で取り組んでいけたら。

 この1回だけで終わるのではなく、どんな形だろうと継続する。実業団VS大学の対決を日本の長距離界の柱、文化として強化・普及をしてほしい。私は何度でも言いますよ」

 大会発展に向け「反省シート」の作成を提案。今大会の課題を踏まえ、各チームが要望を出す機会を求めた。「駅伝は道路の使用許可が必要。行政の力、スポンサーの力、各チームの本気度。この3要素があって成功するもの」。11分半の取材で繰り返した。

「少子化になりますよ、競技人口はこれからますます減っていきますよ。大谷翔平選手のような人材が野 球ではなく、駅伝をやりたいというような文化を我々が考えていかなければならない。そう、僕は思っています。

 ケニア人のみんなが速いわけではない。速くない人もいるでしょ? 日本には立派なトレーニングメソッド、医学があるんです。だから、身体能力の高いアスリートが陸上をやってくれたら、これからケニアやエチオピアに勝てる可能性はあると思っています。

 大谷翔平選手は世界No.1でしょ? 日本人ですよ。ベースボールの舞台でNo.1になれるんですから。今の子どもたちは手足が長い。いい体つきの子が走れば、もっともっと未来は開ける。近い将来、私は必ず2時間3分台で走らせます」

 今回は、元気な子どもたちに向けた競技普及に加え、万博をかけた「わんぱく大作戦」を発令。教え子の走りには「わんぱく大作戦は50点だなぁ。もう少し思い切った冒険をしてほしかった」と嘆いた。

「駅伝は時計を見て走るんじゃない。前後の選手との流れの中で走るもの。時計を見ず、マニュアルに囚われないギラギラした走りが多くの人に感動を呼ぶ。『コイツ、駅伝に来たらスゲェだろうな!』というような、ガッツ溢れるわんぱくな選手をつくっていきたい」

 1970年の万博は3歳。当時は連れて行ってもらえなかった。「生きているうちに駅伝としてPRをさせてもらったことは感慨深い。皆さん、是非万博に行きましょう!」。アピールを忘れず、熱弁を締めくくった。

(THE ANSWER編集部・浜田 洋平 / Yohei Hamada)

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