南米ウルグアイのムヒカ元大統領が死去 「世界一貧しい大統領」

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画像説明, 引退後のホセ・ムヒカ元大統領

南米ウルグアイのホセ・ムヒカ元大統領が13日、死去した。89歳だった。2010年から2015年まで大統領を務めたムヒカ氏は、その質素な生活ぶりから「世界で最も貧しい大統領」として知られていた。

現職のヤマンドゥ・オルシ大統領は13日、Xへの投稿でムヒカ氏の死を伝え、「私たちに与えてくれたすべてのもの、そして国民への深い愛情に感謝する」と書いた。

死因は明らかにされていないが、ムヒカ氏は食道がんを患っていた。

人々から「ペペ」の愛称で親しまれてきたムヒカ氏は大統領在任中、公邸には住まず、首都モンテビデオ郊外の農場で暮らしながら職務を遂行していた。消費主義への批判や、同性婚、妊娠初期の人工中絶、嗜好(しこう)用大麻の合法化といった社会改革を推進したことで、ムヒカ氏はラテンアメリカ内外で広く知られる政治家となった。

人口わずか340万人の小国にとって、ムヒカ氏の世界的な人気は異例のものだったが、そのレガシーをめぐっては国内で賛否両論がある。

実際、多くの人々がムヒカ氏を政治家らしからぬ存在と見なしていたが、実際にはそうではなかった。

ムヒカ氏は、自分の政治への情熱や本への愛着、そして農作業への関心は、モンテビデオの中流家庭で育ててくれた母親から受け継いだものだと語っていた。

青年時代のムヒカ氏は、ウルグアイの伝統的な政党の一つである国民党に所属していた。同党は後に、ムヒカ政権と対立する中道右派の野党となった。

1960年代には、都市型の左翼ゲリラ組織「トゥパマロス国民解放運動(MLN-T)」の設立に関与した。この組織は襲撃や誘拐、処刑などをしていたが、ムヒカ氏自身は殺人には関与していないと一貫して主張していた。

キューバ革命や国際的な社会主義思想の影響を受けたMLN-Tは、ウルグアイ政府に対する地下抵抗運動を展開した。当時の政府は立憲民主制を維持していたが、左派勢力は政府が次第に権威主義的になっていると批判していた。

この時期、ムヒカ氏は4度にわたり拘束された。1970年に拘束された時には6発の銃弾を浴び、あやうく死ぬところだった。

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画像説明, ムヒカ氏は、政治でもプライベートでも質素なことで知られた

ムヒカ氏は脱獄を2回経験している。そのうちの1回では、105人のMLN-Tメンバーとともにトンネルを使って脱走した。これはウルグアイの刑務所史上最大級の脱獄事件の一つとされている。

1973年にウルグアイ軍がクーデターを起こした際には、ムヒカ氏は「9人の人質」の一人として拘束され、ゲリラ活動が続けば処刑すると軍に脅された。

1970年代から1980年代にかけ、ムヒカ氏は14年以上にわたり投獄された。その間に拷問を受け、過酷な環境と隔離状態の中で大半の時間を過ごした。1985年にウルグアイに民主主義が戻ると、釈放された。

獄中生活について、ムヒカ氏は狂気を直接体験したと語っており、妄想に苦しみ、アリと会話することさえあったという。

釈放された日が人生で最も幸せな日だったとし、「大統領になったことなど、それに比べれば取るに足らない」と語っていた。

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画像説明, 1985年3月に釈放された際のムヒカ氏(左)

釈放から数年後、ムヒカ氏はウルグアイ議会の上下両院で議員を務めた。

2005年には、ウルグアイの左派連合「拡大戦線(FA)」初の政権で閣僚に就任し、2010年に大統領となった。

当時ムヒカ氏は74歳で、国際的にはまだ無名の存在だった。

その当選は、当時すでに大きな勢いを持っていた南米の左派勢力にとって重要な節目となった。ムヒカ氏は、ブラジルの現大統領ルイス・イナシオ・ルラ・ダ・シルヴァ氏や、ヴェネズエラの故ウゴ・チャベス前大統領と並ぶ左派の指導者の一人となった。

ただし、ムヒカ氏は独自のやり方で政権を運営し、政治評論家によれば、たびたび現実主義と大胆さを示したという。

ムヒカ政権下では、比較的好調な国際情勢のもと、ウルグアイ経済は年平均5.4%の成長を記録し、貧困率は低下、失業率も低水準に保たれた。

また、同時期に議会で可決されたさまざまな社会法により、ウルグアイは国際的な注目を集めた。中絶の合法化、同性婚の承認、そして大麻市場の国家による規制などがその代表例だ。

ムヒカ氏は在任中、各国の元首が通常するような、公邸への入居を拒否した。

代わりに、政治家であり元ゲリラでもある妻ルシア・トポランスキー氏と共に、モンテビデオ郊外の質素な自宅で暮らした。家事を手伝う人はおらず、警備も最小限にとどめていたという。

常にカジュアルな服装で、1987年製の水色の独フォルクスワーゲン(VW)「ビートル」を運転する姿が頻繁に目撃されていた。また、給与の大部分を寄付していたことから、一部のメディアはムヒカ氏を「世界で最も貧しい大統領」と呼んだ。

しかしムヒカ氏は、この呼称を常に否定していた。2012年に自宅で行われたインタビューで、「最も貧しい大統領だと言われるが、私はそうじゃない」、「本当に貧しいのは、もっと欲しがる人たちだ。(中略)そういう人は終わりのない競争の中にいる」と語った。

倹約を説いていたムヒカ氏だが、在任中には公的支出が大幅に拡大し、財政赤字も拡大したことから、野党からは浪費だと批判された。

ムヒカ氏はまた、政権の最優先課題として教育を掲げていたにもかかわらず、ウルグアイの教育分野で深刻化していた問題を改善できなかったとして批判を受けた。

しかし、同時期の他の地域指導者とは異なり、汚職や民主主義の破壊といった疑惑が持たれることはなかった。

政権末期には、国内での支持率は約70%と高水準を維持し、退任後には上院議員に選出された。一方で、世界各地を訪れる時間も多くなった。

政界を引退する前には、ムヒカ氏は次のように語っていた。

「世界がなぜ私に注目するのか? 質素な暮らし、簡素な家、古い車に乗っているから? それが驚きだというなら、この世界はおかしい。なぜなら、それは本来、普通のことだからだ」

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画像説明, 現職のヤマンドゥ・オルシ大統領(右)はムヒカ氏の政治的後継者だ

ムヒカ氏は2020年に政界を引退したが、その後もウルグアイで中心的な存在であり続けた。

ムヒカ氏の政治的後継者であるヤマンドゥ・オルシ氏は、2024年11月の大統領選挙に勝利。「拡大戦線」内の同氏の所属グループは、ウルグアイの民主主義復帰以降で最多の議席数を獲得した。

昨年、ムヒカ氏はがんを患っていることを公表し、年齢や、死の避けがたい接近について語る機会が増えたが、常にそれを自然なものとして、取り乱すことなく受け入れていた。

昨年11月のBBCとの最後のインタビューでは、次のように語っていた。

「死が避けられないことは誰もが知っている。そしてそれは、人生をひと味変えるようなものかもしれない」

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