レアル・マドリーは魂もなく、野垂れ死んだ。このままでは“時代に取り残された生ける屍”として彷徨い続ける【現地発】
フットボールも、魂もなく、死んだ。野垂れ死にだ。
レアル・マドリーはバルセロナの本拠地カンプ・ノウで、これ以上はない最低のシーズンの幕を引いた。バルセロナはフットボールも魂も併せ持ったプレーで、すでに死に体となっていた白いチームを葬り、リーガ優勝を決めている。
救いようがないのは、マドリーの敗北も、その負け方も何ら驚きではなかったことだ。マドリーのプロジェクトは完全に方向性を見失い、根本的な見直しが必要となっている。
■すり替わった美学
Getty Images2シーズン連続で無冠に終わったマドリー。1回だけならば偶然や外的要因が絡んだと言えるかもしれないが、2回も繰り返されれば運など一切関係ない。彼らは間違いなく、崩壊の道をたどっている。フェデ・バルベルデとオーレリアン・チュアメニの衝突に象徴されるように、チームは内紛と罵り合いが絶えない状況だ。それは団結という言葉と、目に見えるようなリーダーシップの不在を白日の下に晒している。
すべてが始まったのはリーガ前半戦のクラシコで、ヴィニシウス・ジュニオールがシャビ・アロンソに早期交代を命じられ、怒りを爆発させた出来事だとも言われている。しかしアロンソが監督としての権威を失ったのは、あのときからではない。マドリー会長のフロレンティーノ・ペレスは、ゼネラルディレクターのホセ・アンヘル・サンチェスが招聘に熱心だった元レヴァークーゼン監督のことを以前から気に入っていなかった。クラシコ前から彼の親指は下を向いていたのだ。
マドリーは組織的にもフットボール的にも大きな亀裂が入っていた。このクラブ/チームを蝕んでいるのは「アイデンティティーの喪失」にほかならない。彼らは自分がどうありたいのか、どうプレーしたいのかを見失っている。
11年で6回のチャンピオンズリーグ(CL)優勝を果たすなど、圧倒的な成功を収めてきたマドリー。しかし「勝利こそすべて」という彼らの美学は、いつの間にか「内容はどうでもいい」にすり替わってしまった。かつての彼らは、クリスティアーノ・ロナウド、カリム・ベンゼマ、トニ・クロース、ルカ・モドリッチら突出した個の力が組織として足りない分を補っていたのだが、そうやって手にしてきた成功を「白いユニフォームに秘められた力だ」と履き違えてしまった。彼らは一度として自問自答することなく組織よりも個を……過去と比べて劣っているとしても(組織の補完能力がなくても)、選手の個を優先し続けてきたのである。
今季のマドリーは、この根深い悪癖をこれまで以上に象徴していた。シャビ・アロンソは最初にレヴァークーゼン時代のような緻密な戦術を取り込もうとして失敗し、その後に堅守速攻ベースの結果主義的な采配を振るったが、チームは改善されなかった。現在のマドリーはスター格の選手たちの噛み合わせも悪く、キリアン・エンバペがいない方が良いプレーを見せられるくらいだ。振り返れば、アルバロ・アルベロアが後任となった直後のCLプレーオフ、マンチェスター・シティ戦が今季の彼らのピークだったが、そのときもエンバペはいなかった。シティ戦の輝きを継続できなかったマドリーは、失望だけを感じさせながらシーズンの終わりまでたどり着いている。
■時代遅れ
Getty Imagesマドリーは後方に守備ブロックを敷いて、カウンターから個人技を生かすやり方に最後まですがっていたが……それはあまりに時代遅れの代物だ。そんなことを言えば、CL決勝まで勝ち進んだミケル・アルテタのアーセナルがいると指摘されそうだが、彼らは自分たちのプレーを突き詰めており、対戦相手にとっては難攻不落の要塞と化している。彼らと比べてマドリーの堅守速攻には妥当性がなく、ただ過去の栄光にすがっているだけだ。エンバペとヴィニシウスの守備意識のなさは絶望的で(大一番で少しやる気を見せたところで……)、求められる最低限の水準にも達していない。加えてエデル・ミリトンが怪我に苦しむDFラインだって穴だらけだ。
カルロ・アンチェロッティが指揮していたときは、マドリーの堅守速攻およびリアクションフットボールは機能していた。それだけでなく、彼らは良質なポゼッションフットボール(サイドチェンジをする。サイドで深みを取る……)を実践するための選手たちも揃えて、対戦相手や試合の展開次第でその二つのフットボールをうまく使い分けていた。しかしもう、クロースとモドリッチはいないのだ。彼らレベルの選手を現代フットボールで見つけ出すのはもう難しいかもしれないが、同じようなタイプの選手は絶対的に欠如している。クロース&モドリッチ以降、マドリーの中盤は“フットボール”より“フィジカル”に特化していったが、昨夏にも誰も補強することはなかった。現在の惨状の中で、アルダ・ギュレルが数少ない救いとしてその名を挙げられるのも、決して不思議なことではない。まだ荒削りだが、彼だけがチームが失ってしまった“異質な何か”を宿している。
■生ける屍として
Getty Images現代フットボールではパリ・サンジェルマン、バイエルン・ミュンヘン、バルセロナ、マンチェスター・シティが見せているような、ハイプレスとポゼッションと猛烈なリズムを融合させたスタイルが正解とされている。しかし、私はマドリーがそうしたスタイルを身につけるべきだとは思っていない。マドリーがそういった流れに乗る必要はないが、この新しい時代に適応する、自分たちのスタイルを見つける必要はあるだろう。今の彼らはピッチ上で、どんな基準を持ってプレーすればいいかを分かっていないのだから。
彼らにはコレクティブなゲームプランがない。ピッチに立つ選手たちは、今のところ先達より劣るかもしれないが(もう成長しないと誰に言えるだろう)、並外れていることに変わりはない。しかし、今は一人ひとりが身勝手に戦っているだけで、それで勝てるわけがない。トレント・アレクサンダー=アーノルドは守備への戻りがひどく緩慢。ジュード・ベリンガムはよく走るものの、チームの攻守の均衡を危険にさらしている。エンバペは足元でボールを受けるだけで、マークを外す動きはほとんど見せない。加えて、その振る舞いは何か責任感が足りず、すべてが他人事のようである(チームに関係なく41試合41得点という記録を残しているのはとんでもないが……)。
マドリーの崩壊はロッカールームの毒された空気、さらにはクラブのチームづくりにも起因している。ルーカス・バスケス、ナチョ・フェルナンデス、モドリッチはチームの接着剤として機能し選手たちを束ねることができた。練習でヘラヘラ笑っている新入りのヴィニシウスに対してモドリッチが思い切り肩をぶつけたこともあったが、そうしたキャプテンが今のマドリーにはいない。バルベルデはチュアメニと衝突する前からひどく感情的で、キャプテンらしい振る舞いなど見せたことがない。
またクラブの補強方針について……契約切れの選手(トレント)や将来有望な選手(フランコ・マスタントゥオーノ)の獲得は、陣容が充実しているときに彩りを加えるためのものでしかない。現在のマドリーに求められるのは、絶対必要な選手の獲得にほかならないはずだ。
現在、少なくないサポーターがチームの刷新を求めているが、マドリー首脳陣の考えは違うようだ。今夏の補強は守備陣のテコ入れだけに留まる可能性があり、この危機的状況が声高にその必要性を叫んでいる創造的MFの獲得は不透明となっている。もっとも、すでに既定路線となったジョゼ・モウリーニョの招聘だけで、破壊的な革命ではあるのだが……少なくとも、ロッカールームの雰囲気を極限まで引き締める、ということにおいては。
いずれにしろ、マドリーの再建は名前先行で選手たちを並べるのではなく、現代フットボールの中でどうやってプレーしたいかというアイデアに懸かっている。何よりもまず、彼らは自分たちが何者になりたいのかを定義しなければならない。「内容はどうでもいい」で、勝てる時代はとっくに過ぎ去った。そこを定めなければ、彼らは“時代に取り残された生ける屍”として、未来を彷徨うことになるだろう。
文=ハビエル・シジェス(Javier Silles)/スペイン紙『as』副編集長
翻訳=江間慎一郎