「精神的タイムトラベル」が失われた記憶を回復できることが示された
誰でも経験があると思いますが、人は何かを覚えても時間が経つとその多くを忘れてしまいます。
特に学生時代に必死に覚えた英単語や試験勉強の内容が、しばらくするとまるで煙のように頭から消えてしまった、という経験がある人は多いでしょう。
しかし、よく観察すると、私たちはすべての記憶を均等に忘れているわけではありません。
たとえば英単語を100個覚えた場合、1日にキッカリ10個ずつ忘れるというようなことが起こらないのは多くの人が経験しているでしょう。
人間の忘れる速度は「初めは早く、後はゆっくり」という特徴を持っています。
これは多くの人が体験していることとも一致します。
こうした記憶の忘れ方の特徴は、「忘却曲線」と呼ばれるグラフで表現されます。
この忘却曲線に単純に従う場合、例えば覚えた内容の多くは最初の数時間で急速に失われ、1日経つ頃にはさらに多くを忘れてしまいます。その後、忘却のペースは緩やかになり、1週間後でもある程度の記憶は残り続けるとされます。
(※近年の忘却曲線は横軸に経過時間、縦軸に記憶の保持率を設定したものが多く使用されており、ここでいう忘却曲線は保持率を縦軸にしたものです。覚えている率を使用したものは厳密には忘却曲線ではなく保持曲線という場合もあります。)
学生時代に覚えた英単語や会社のマニュアルなどのほとんどを忘れてしまっても、妙に記憶に残っているものがあるのも、この一部が残り続けるという現象の結果とも言えます。
(※実際には時間を置いた復習の効果もあるため、実際には純粋な意味での忘却曲線に従っていない場合もあるでしょう)
筆者の場合、学生時代に声優の名前の多くを記憶し、その後の人生で全く思い出すことがなかったものの、現在でも何人かを思い出すことができます。
古い記憶にはすぐには思い出せなくなるという特性があるものの、それ以上に忘れるペースも遅くなるのです。
一方で人間の脳には、覚えた記憶を整理して保存する「記憶の定着・統合」と呼ばれるプロセスが常に働いています。
記憶はただ単に時間と共に薄れていくのではなく、この「忘れること」と「定着させること」が同時に起こり、そのバランスによって忘却曲線が形成されています。
では、一度忘れてしまった記憶を完全によみがえらせることはできるのでしょうか?
これまでの研究によれば、その答えは「YES」であることがわかっています。
レトロゲームを嗜む人の中には、ゲーム音楽を聴いたりコントローラーを握ることで、忘れていたはずの操作方法(口頭で聞いても思い出せなかったものなど)が一気に蘇ることもあります。
そして長年の研究により、このような記憶の蘇りは「当時を思い出させるような状況や感覚」、つまり文脈性が大きなカギとなっていることが判明しています。
ある出来事を思い出せないとき、当時聞いた音楽や匂い、一緒にいた人のことを手がかりにすると記憶が蘇る、といった経験はないでしょうか。
記憶はそれを形成したときの環境や感情(=文脈)と密接に結びついているため、その文脈を再現することで忘れていた内容を思い出せる場合があります。
先のレトロゲームの例では音楽やコントローラーの感触、そしてゲームに付随する思い出が記憶の周囲に形成された「文脈性」を刺激し「昔取った杵柄」として当時の操作方法や攻略方法を思い出すわけです。
またいくつかの研究では、特に嗅覚が記憶の再現に最も大きな効果を与えるとする報告も存在します。
ただ、こうした「文脈を再現して記憶を蘇らせる」という方法が、一時的な効果にすぎないのか、あるいは記憶そのものの忘れ方に根本的な影響を与えるのかについては、十分な研究が行われていませんでした。
つまり、「その時だけ思い出してまたすぐ忘れてしまうのか」、それとも「記憶を完全に若返らせて再び忘れにくくするのか」が明確ではなかったのです。
そこで今回研究者たちは、「精神的タイムトラベル」という手法を用いて、記憶の蘇り現象を大規模に調べることにしました。
よく似たものに文脈再現というものがありますが、今回の研究ではあえて「精神的タイムトラベル」という表現がされています。
従来の文脈再現は「単に当時の環境を再現すること」が主な焦点でしたが、今回の研究で使われた精神的タイムトラベルは「過去の自分に精神的に戻る」という主体的な意識を強調しています。
つまり、単なる周囲の状況や刺激を再現するだけでなく、「自分自身の意識をその時間へと明確に移動させ、過去をまるで再体験するように」深く主体的に行うことが特徴なのです。
精神的タイムトラベルで記憶はどの程度蘇り、その後の運命はどのようなものだったのでしょうか?