「よその国のせい」症候群の日本は、世界のどこまで堕ちてゆくのか
告知が遅れたけど、先月18日の『朝日新聞』1~2面の特集「米国という振り子」にコメントした。Zoomで取材してくれたのは、滞米中の青山直篤記者で、以前紹介した同氏の『デモクラシーの現在地』は、トランプを理解する必読書である。
コメントの中身はリンクと一緒に、最後に上げるけど、日米関係史をふり返る企画なので、『江藤淳と加藤典洋』の著者としてお声がかかった形である。まぁ、彼らの後を継ぐ正嫡だしね(笑)。
……それはともかく、よい機会なので補うと、加藤典洋の『敗戦後論』(主たる論考は1995年)をめぐる最大の誤読は、江藤淳との関係にある。
一般には、拙著でも書いたけど、
それが他者(占領軍)の手で書かれた事実を直視せよと唱える『敗戦後論』の論旨が、江藤的な「押しつけ憲法」への糾弾を連想させたのは事実で、柄谷〔行人〕の参謀役だった浅田彰は「ほとんど江藤淳が『一九四六年憲法――その拘束』(文春文庫)なんかで執拗に論じてきたことのたんなる回りくどい言い換え」にすぎないと、強い言葉で加藤にやり返している。
『江藤淳と加藤典洋』262-3頁 (強調を付与)
といった読み方が、ふつうである。要は、加藤は「江藤淳らの改憲論の側に寝返ったぞ!」とみなされたから、当時は護憲派が主流だった論壇で袋叩きに遭い、キャンセルされかけたわけだ。
だが先入見なしに『敗戦後論』を読むと、妙なことに気づく。まさに江藤淳を主題として論じ、感激した江藤本人が礼状を送った『アメリカの影』(該当部は1982年)に比べて、同書の江藤評価はむしろ異様に辛辣なのだ。
具体的に引くと、
これを指弾する江藤は、河上〔徹太郎と〕同様、「清く潔白」な存在を善とし、それを自説の背骨としている〔が〕……彼自身汚れから自由であるはずのない江藤の「清く潔白な」観点からする「汚れ」の断罪は、むしろ完全に転倒しているという印象をぬぐいがたいのである。
ちくま文庫版、88-9頁 後日、現行の版に差し替えます
な感じだし、また江藤が昭和天皇の死後、福沢諭吉の論説を根拠にその無答責を主張したのを、
江藤の論は、天皇をまったく人倫の外におくことで、表面上、これを無実化するビホウ論であり、これ〔福沢〕の逆をいく。……いわば、世界を敵に回した天皇擁護論であり、福沢の「帝室論」と正反対の、戦後の天皇信奉の完全な破綻の図といわなければならない。
同書、303-4頁
と酷評してもいる。つまりボロカスである。
なぜ、そうなるのか。先月ご案内した、江藤と加藤を「転向論」として読みなおす拙稿に、ずばり答えを書いておいた。
江藤は日本人よ、GHQによる精神の支配から自立して「父となれ」と煽るが、それを言うのは本人こそが、自分の転向をアメリカという父親に「強いられたせい」にしたいからだ。戦後に再出発する際、鮫島伝次郎にはなるまいと誓ったはずの初心を、江藤は忘れているとする批判である。 (中 略)
転向なしでは生きられなかった日本人としての過去を、「ごまかすな」と説いてこその江藤淳だったのに、本人が率先して責任を転嫁しているじゃないか。そんな加藤の苛立ちは、95年の評論「敗戦後論」で頂点に達する。