沈まず帰還し「幸運艦」と呼ばれた駆逐艦「雪風」…海に投げ出された多くの兵員救助、数奇な運命を映画に
旧日本海軍の駆逐艦「雪風」は80年前の夏、京都府北部の伊根湾で終戦を迎えた。太平洋戦争中の戦闘では出撃して沈むことなく帰還し、「幸運艦」の異名が付いた。多くの戦闘で海に投げ出された兵員らの救助にもあたり、戦後は復員船に。数奇な運命で多くの命を救った雪風に光を当てた映画が、終戦の日の15日、封切られた。(松田聡)
「幸運艦」とも呼ばれた駆逐艦「雪風」=大和ミュージアム提供映画「雪風 YUKIKAZE」で、脚本を手がけた長谷川康夫さん(72)と、映画を企画した小滝祥平さん(68)は制作の前段階で、乗組員の手記など多くの記録を読み込んだ。駆逐艦は艦隊の 先鋒(せんぽう) として魚雷を放って敵艦の勢いを止めたり、物資輸送をしたりと様々な目的で使われたという。
戦艦や空母に比べて華々しくないが、甲板と水面の高さの差が小さいため、仲間を救助できたのだろうと考え、2人は「人を救えるのは駆逐艦しかなかったんじゃないか。どんどん人を救ったことも、駆逐艦のスピリッツに関わっていたのでは」と想像を巡らせる。
ただ、戦闘は兵員の人格を変えた。作家の小川万海子さん(58)は、雪風の乗組員だった西崎信夫さんを生前にインタビュー。西崎さんは「怖かったが機銃を放った時、恐怖が殺意に変わり、弾を撃つのに快感さえ覚えた」と語ったという。小川さんは「本当に戦争ほど恐ろしく、ひたすら残酷で、悲惨なものはない」とインタビューを振り返る。
雪風は終戦直前の頃、舞鶴に寄港し、天橋立に面した宮津湾に停泊。7月30日、米軍による宮津空襲に遭い、近くにいた駆逐艦「初霜」は大きな被害を受けて座礁した。損傷した雪風は、潜水母艦「長鯨」が襲撃された湾北側の伊根町沖に移動。そのまま終戦を迎えた。
戦後は復員輸送に使われ、多くの引き揚げ者を外地から日本へ運んだ。戦後賠償で当時の中華民国に渡ってしばらく運用された後、解体されたという。
水兵役で出演し、映画や戦争への思いを話す奥平さん(東京都内で)俳優の奥平大兼さん(21)は映画で水兵役を演じた。東京都内で開かれた完成披露イベントでは「(雪風は)命を救って帰すことをすごく大事に実行した」「ほかの船、空に陸にと必死に生きた結果が今の日本だと思う。そういう人たちが見て『よかった』と思える世の中であってほしい」と思いを語った。
◆駆逐艦「雪風」= 1939年に進水。基準排水量2033トン、全長118.5メートル。最大速力は約36ノットで、230人以上が乗り組んだ。太平洋各地を巡り、空母などを失ったミッドウェー海戦では後方で輸送船団を護衛した。インドネシアのスラバヤ沖海戦、ガダルカナル島攻防の第3次ソロモン海戦、フィリピンのレイテ沖海戦のほか、戦艦大和が沖縄に向かった坊ノ岬沖海戦にも参加した。