Windows 95がもたらしたものとは何か?改めて30年前を振り返る(後編)

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Windows 95の画面

 Windows 95は、かつてのパソコンマニアだけでなくTV番組や全国でのイベントなど、マスマーケットにPCとWindowsという存在をアピールする役割を果たした。パソコンショップや量販店が行なった深夜発売、TV CMや新聞広告、TV番組などでのアピールが相乗効果となり、広く知られることとなった。

 Windows 95発売時を振り返るコラムの後編では、深夜発売の様子やマスマーケット向けに実施された販促戦略や宣伝活動を振り返る。

 1995年11月22日の夜、秋葉原の街は「お祭り」といっていい状態となった。当時、秋葉原の街には飲食店も少なく、大通り沿いの電気店は夜になると閉店してしまう店がほとんどで、夜は灯りのない暗い街になるのが常だった。ところが、11月22日の夜は違っていた。いつもは閉店してしまう電気店が店を開け、深夜に近づくと秋葉原の駅から降り立った人が続々と集まってくる。

 当時、筆者は「Businessコンピュータニュース(現BCN)」の記者として秋葉原の街で取材を行なっていた。Windowsの深夜発売は初めてのこととなるため、どこで、どのように取材をすればよいのか、まったく分からない状況だった。

 「とにかく秋葉原の街を歩いていて、コンピュータメーカーの幹部やマイクロソフトのスタッフに会ったら、どんどんコメントを取るように!時間経過によってコメントの内容が変わる可能性もある。同じ人でも、時間が経過していたらコメントを取る方が良い」――当時の編集長からはこんな指令が下っていた。

 秋葉原にあったパソコンを取り扱っていた店舗は、中央通り沿いの大型店舗をはじめ、裏通りにあるパーツショップまでほぼ夜に店を開けていた。その中でも、深夜発売の際、欠かせない店舗が2店舗あった。1つは、ラオックスのザ・コンピュータ館、もう1つは中央通り沿いのソフマップChicago館だ。

 ザ・コンピュータ館は当時のパソコン販売をリードした店舗だった。筆者は1990年代、地方のパソコンショップに取材に行なった際、ザ・コンピュータ館で行なわれている取り組みを紹介することで、口が重い店舗スタッフと距離を縮める経験をしたことが何度かある。パソコンショップにとって、ザ・コンピュータ館でどんな取り組みが行なわれているのか、注目する店舗であり、実際にパソコンや関連商品の売り上げが大きい店舗だった。

ザ・コンピュータ館があった建物は、現在、AKIBAカルチャーZONESになっている

 もう1つ核となった店舗が、ソフマップのChicago館だ。実は「Chicago」とはWindows 95の開発コードネーム。Chicago館とは、Windows 95のための店舗だったといえる。それだけにChicago館は、Windows 95発売の夜には重要な店舗となったのである。

ソフマップChicago館は、現在はChicagoの名称が取れている

 「秋葉原ならヨドバシカメラではないのか?」と思われる方もいるかもしれない。1995年時点では、秋葉原にはヨドバシカメラは存在していない。

 取材を行なっていた当時、ザ・コンピュータ館とソフマップChicago館を中心にウロウロと秋葉原を歩き回った。パソコンメーカー幹部に出くわした時は、面識がない相手であっても、名乗ってコメントを求めた。

 そんな中、どういう経緯で出会ったのかはまったく覚えていないが、当時のマイクロソフトの社長だった成毛真氏を発見。「この人の後をついて回り、どんなことをしたのか記録していけば、ネタになるだろう」と考え、23日になるまでの1時間、成毛氏について回った。

 成毛氏が11月22日から23日に切り替わる時間にいたのは、当時、イベントスペースとなっていたザ・コンピュータ館の6階だった。実はこの6階はパソコン業界関係者が集まる簡単なパーティを行なうスペースにもなっていたようだ。

 街の喧騒に比べ、ザ・コンピュータ館の6階は静かだった。窓から街の喧騒を見下ろしていた成毛氏が、盛り上がっている様子に満足そうなことが伺えた。

 「ビルに電話してみよう!」と携帯電話で電話を始めたのはその時だった。残念ながら電話はつながらなかったものの、まさに深夜発売が盛り上がったからこそ起こった出来事だったと思う。

 一方、多くの客や野次馬が訪れた秋葉原の街は大盛り上がりとなっていた。その盛り上がりを示すエピソードを紹介してくれたのは、PC Watchの若杉紀彦編集長だ。当時、パーツショップで店員をしていた若杉編集長によれば、「あそこの競合店ではこんなおまけをつけてWindows 95パッケージを販売しているという情報が飛び込んできて、つけるおまけがどんどん増えていったことを覚えている」という。まさに多くの客が訪れ、お祭り状態となっていたことを示すエピソードだ。

 日本でのWindows 95のプロダクトマーケティング部門の責任者だった佐藤一志氏は、「マイクロソフト本社で行なわれた、セールスマーケティングのミーティングで、日本の秋葉原の深夜販売の様子を披露したところ、こんなことをやったんだと、各国のマーケティング担当者から注目された覚えがある」と振り返る。ほかの国の担当者から見ても、深夜発売の様子は興味深い状況だったようだ。

 ちなみに、筆者が勤務していた「Businessコンピュータニュース」では、Windows 95発売直後の号で、「秋葉原深夜2時間で1万本」と販売本数を試算している。現在ならPOSデータをもとにもっと正確な数値を算出することができるのだろうが、1995年当時、POSレジは導入されていなかった。そのため、取材を行なって試算した数字が2時間で1万本という数値だが、今回の取材で、「悪い試算ではない」という声があった。

Windows 95の深夜発売の様子を伝える「Businessコンピュータニュース」)

 深夜発売が盛り上がったのは秋葉原だけではない。同じように電気街があった大阪の日本橋、名古屋の大須でも深夜発売は行なわれた。

 「秋葉原だけでなく、大阪の日本橋、名古屋の大須ともに、盛り上がったと記憶している」と当時営業部門に所属していた小川秀人氏は話す。全国の電気街には多くの人が訪れた。

販促用に作られたWindows 95ビール

 各電気街や量販店で行パソコンわれた深夜発売に加え、1995年11月23日の午前0時、もう1つの深夜発売が行なわれていた。コンビニエンスストアのローソンでも午前0時からWindows 95のパッケージ販売が始まったのだ。

 「ローソンで発売するという話しが営業部隊から持ち込まれたが、24時間営業のコンビニエンスストアで発売開始時間は何時にすればいいのか?という話しになった。ちょうどその頃、秋葉原電気街で深夜発売をするという話しも出てきて、それでは11月23日の午前0時に販売を開始するということでいいんじゃないか?というところが落とし所となった」とWindows 95のプロダクトマーケティングチームに所属していた御代茂樹氏は振り返る。

 ローソンでWindows 95のパッケージを販売するというのは不思議な話に思えるかもしれないが、ちょうど1995年頃は「うちでもパソコンやソフトを取り扱いたい!」と考える店舗が増えた時期だった。元々、パソコンは専門知識を持った販売員がいるパソコン専門店が販売する商品だった。これが大きく変わったのが1990年代中盤だったのだ。

 たとえば、Windows 95をインストールする作業についても、Windows 95は、提供する媒体がフロッピーディスク(FD)からCD-ROMへとシフトしていった時期にあたる。FD版Windows 95は、新規インストール版で21枚、アップグレード版で20枚が必要だった。20枚以上のFDを順番にインストールしていく作業は、注意深い人には問題なく進むかもしれない。しかし、筆者のような粗忽者は間違った順番で作業をする可能性が高いことになる。FDに比べ、CD-ROMによるWindows 95のインストール作業はディスクを切り替える必要がない。作業負担は大幅に軽減する。

CD-ROM版のWindows 95。なお、CD-ROM版はアップグレードのみ

 システム的にもWindows 3.1に比べれば安定し、使いやすいWindows 95は、パソコンの専門知識がない販売店にとっても取り扱いしやすいOSだった。それまでパソコン販売は行なっていなかった家電店、大手スーパーの家電売り場などがパソコンの取り扱いを開始することに前向きだった時期と合致し、Windows 95は前向きに受け入れられたのではないか。ローソンでWindows 95を販売することもこうした流れの一環と考えることができる。

 電気街での深夜発売を盛り上げたのは、パソコンマニアやパソコン業界だったとすれば、マイクロソフトが実施した発売当日の昼間に実施したイベントや日経新聞への広告出稿、TVでの特別番組のオンエアはマスマーケット向け施策となった。

 「発売日当時の日経新聞で、中央見開き面にはマイクロソフト自身の広告を入れ、ほかの面にはパソコンメーカー各社がWindows 95搭載パソコン発売の広告を掲載する広告ジャックを行なった」と広報・宣伝を担当していた江崎真理子氏は振り返る。

当時日経新聞に掲載されたマイクロソフトの見開き全面広告

 Windows 95を紹介するTV番組も発売日にオンエアされた。番組では提供を企業名ではなく、「Windows 95」とした。このように提供を企業名ではなく、たとえば映画のタイトルとして、実際の広告はその映画の関連企業のものが入るという手法は、現在では決して珍しいものではない。しかし、1995年当時には先例がなかったために、「広告代理店の担当者にかなり無理をいって、実現してもらった」と江崎氏は話す。

 発売日当日の昼間には、秋葉原でマイクロソフト主催のイベント「Windows 95 Start Festa! 」が開催された。このイベントは、秋葉原では11月23日を皮切りに4日間、さらに秋葉原だけでなく、札幌、仙台、名古屋、大阪、博多と全国で開催されている。秋葉原での深夜発売がパソコンマニアを集めたのに対し、家族連れやカップルなども参加するイベントとなった。

 思わぬ祭り状態となったWindows 95の深夜発売の様子は、ニュース番組などで取り上げられたこともあって、マスマーケット向けアピールにもプラスに働き、Windows 95は順調な船出を迎えたのではないか。

 実は今回、当時のマイクロソフトの社員の皆さんに取材をしていて、「Windows 95が有名になったことで、親から『お前のしている仕事がようやく分かった』と言われた」という話しを複数の方から聞いた。確かに、「OSを作っている会社に勤めている」といって理解できるのはコンピュータに詳しい人だけだったろう。それがWindows 95が広く世の中に告知されたことで、「Windows 95を作っている会社なのか」と理解してもらえたということなのだろう。当時の社員の親世代にも伝わるくらい、広く世の中にアピールされたのがWindows 95だったのだ。

「もう、TVよりおもしろい。」とアピールするWindows 95ポスター

 今回のコラムの冒頭、Windows 95発売前の日本のパソコン市場について紹介した。電子情報技術産業協会の国内パソコン出荷台数推移から、1990年から1995年までをピックアップしてグラフにしてみた。1995年度(1995年4月~1996年3月)のパソコン出荷台数は、初めて500万台を突破する570万4,000台。対前年同期比70%増と大幅な伸張となった。

 まさにWindows 95は、パソコン市場を拡大する大きな起爆剤となったのである。

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