日本とイギリス「ロシアを恐れた島国」の決定的な選択の違い(ダイヤモンド・オンライン)
国家が軍事戦略を練る上では、地政学の観点が欠かせない。第二次世界大戦を振り返ってみると、同じ島国であるイギリスと日本では、その戦略が大きく異なっていた。うまく立ち回ったイギリスと比較すると、日本の動きは正しかったのだろうか?地政学の視点で、20世紀の日本の軍事戦略を検証する。※本稿は、北野幸伯『[新版]日本の地政学』(扶桑社)の一部を抜粋・編集したものです。いっても、ロシアは「軍事力世界2位」と呼ばれた国なのですから。 【この記事の画像を見る】 ● 「島国」という立地の強みを 巧みに生かしたイギリス 水の制止力(編集部注/海や広大な水域には、敵国の侵略を困難にさせる防衛力があるという考え)に守られている島国には、短所もあります。 「島国は、攻撃されにくい」という長所がある一方、同時に「大陸を攻撃しにくい」という短所がある。 そのことを知っていたイギリスは、最もパワーが強かったときでも「欧州全土を征服しよう」といった野望は持ちませんでした。 イギリスは軍事力、技術力で圧倒的に差がある欧州以外の国々を攻め、どんどん植民地にしていった。しかし、すぐ近くにある欧州を支配しようとは考えなかったのです。 では、イギリスは、欧州に対してどのような政策をとったのでしょうか?「オフショアバランサー」として行動したのです。 「オフショア」とは「沖合」という意味です。イギリスは、大陸から離れた沖合から、欧州のバランス・オブ・パワーをコントロールしたのです。 欧州に強すぎる国が出そうになると、イギリスは、その他の国々を支援して、強い国と対峙させ、バランスを回復させてきました。
一方、地政学的にイギリスと似た位置にある日本は、どう動いたのでしょうか?これは、全く違う動きをしました。 明治維新後、日本が最も恐れていたのは、ロシアの南下政策でした。これは、当然だろうと思います。当時、世界中の国々が巨大なロシアを恐れていたのですから。 マッキンダー(編集部注/ハルフォード・マッキンダー、地理学者)の1904年の言葉を思い出してみましょう。 〈いわばロシアはかつてのモンゴル帝国に代わるべき存在である。昔は騎馬民族がステップを中心にして、遠心的に各地に攻撃をかけていた。が、今ではロシアがこれに代わって、フィンランドに、スカンジナビアに、ポーランドに、トルコに、ペルシャに、インドに、そしてまた最近は中国というふうに、次々と圧迫を加えてきている〉(『マッキンダーの地政学〜デモクラシーの理想と現実』279P) ● ロシアの南下政策こそが 日本最大の課題だった 日本は、強大なロシアの脅威をどうするつもりだったのでしょうか?「緩衝地帯をつくる」ことで対抗しようとしたのです。日本は、朝鮮半島を緩衝地帯にすることを考えます。 ところが、清は「朝鮮は我が国の属国だから手を出すな」と主張します。結局、1894年に日清戦争が起こり、日本は勝利しました。 しかし、朝鮮半島の問題は、まだ終わりませんでした。1904年、今度は半島の覇権をめぐって日露戦争が勃発。日本は、これにも勝利しました。日本は1910年、韓国を併合しました。そして、満洲への進出を加速させていきます。 私たちは、以下の流れを知っています。 1、日本は、ロシアの南下政策を恐れていた。 2、日本は、ロシアの南下政策を阻止するための緩衝地帯を求めた。 3、日本は、朝鮮をロシアの南下を阻止するための緩衝地帯にすることを決めた。 4、日本は、朝鮮半島をめぐって清国と戦争し、勝利した。 5、日本は、朝鮮半島をめぐってロシアと戦争し、勝利した。 ↓ その後の動きは? ↓ 6、日本は1931年、満洲事変を起こし、満洲全土を支配した。 7、日本は1932年、満洲国を建国した。 8、日本は1933年、満洲国問題で、国際連盟を脱退した。 9、1937年、日中戦争が始まった。中国は、アメリカ、イギリス、ソ連から支援を受ける。 10、1941年12月、日本は真珠湾を攻撃し、日米戦争が始まった。 11、1945年、日本は敗北した。