暗黒物質はビッグバンよりも古い時代に出現した可能性がある
夜空を見上げると無数の星や銀河が輝いていますが、私たちが目にするこうした光を放つ物質は、宇宙全体のわずか20%にも満たないと言われています。
実は、宇宙の大部分を占めるのは「暗黒物質(ダークマター)」と呼ばれる謎の物質なのです。
この暗黒物質という言葉を聞いたことはあっても、具体的にそれが何であるかを説明できる人はほとんどいません。
なぜなら、暗黒物質は名前の通り光を発することも反射することもなく、私たちの目や望遠鏡では全く見ることができないからです。
その存在はただ重力の影響としてのみ現れ、銀河がなぜ回転し続けるのか、なぜ銀河団内の銀河が飛び散らずにまとまっているのかといった、宇宙の不思議な現象を説明するために考え出されました。
こうした不思議な現象を見つけるたびに、科学者たちは「見えない重力の源」が宇宙には隠されているのではないか、と考えるようになったのです。
では、暗黒物質はどこからやってきたのでしょうか?
これまでの主流な考え方は、暗黒物質はおよそ138億年前のビッグバンの直後に生まれたというものでした。
宇宙が誕生した瞬間は極めて高温で高密度のエネルギーが満ち溢れ、通常の物質(私たちを構成する原子や素粒子)だけでなく、暗黒物質も一緒に生成されたと考えられたのです。
まさに「宇宙の残りかす」とでも呼べるような存在として、ビッグバン以降ずっと残ってきたとされてきました。
科学者たちは長年、この説に基づいて暗黒物質を地上の実験で捕まえようと試みましたが、今のところ成功していません。
地下深くに埋められた高精度の検出器や、巨大な粒子加速器を使った実験でも、暗黒物質の痕跡を一切捉えることができなかったのです。
「暗黒物質がビッグバン由来なら、これほど探しても見つからないのはなぜだろう?」という疑問が、科学者の間で強まっていました。
こうした状況を打開するため、最近、ジョンズホプキンス大学の研究者トミ・テンカネン博士らが、これまで誰も考えなかった大胆な仮説を提唱しました。
それは、「暗黒物質はビッグバン以前に作られた可能性がある」という驚くべきアイデアでした。
ただ注意すべき点があります。
「ビッグバン以前」というと宇宙誕生前を意味すると思うかもしれませんが、違います。
現代宇宙論では「ビッグバン」という言葉は2通りの意味で使われています。
一つ目は、「宇宙の始まりそのもの」を意味する場合。
実際、私たちが子どもの頃に読んだ科学雑誌や教科書には、「宇宙はビッグバンという大爆発から始まり、その名残が宇宙背景放射として今も残っている」と説明されていました。
しかし、現代宇宙論の最前線では、このビッグバンという言葉の意味合いが微妙に変化しています。
Credit:早稲田大学今の宇宙論では、「ビッグバンは宇宙の始まりそのものではない」という考え方が一般的なのです。
現代宇宙論では、ビッグバンというのは、宇宙が高温高密度の「火の玉」状態になった瞬間、つまり「宇宙が熱くて密度が濃い状態になった時点」を指します。
これが2つ目のより現代的なビッグバンの解釈です。
そして重要なポイントは、その「高密度な火の玉状態」よりも前に、宇宙は既に存在していたと考えられていることです。
では、「火の玉状態」以前の宇宙はどうなっていたのでしょう?
現代宇宙論によれば、宇宙の歴史は「インフレーション」という出来事から始まりました。
インフレーションとは、宇宙がごくごく小さいサイズから、わずかな瞬間で膨大なスケールに膨らんだ急膨張の現象です。
風船を一瞬で宇宙規模にまで引き伸ばすような、激しい【空間そのものの膨張】です。
このインフレーション中の宇宙には、粒子も星も銀河もなく、ただ「真空エネルギー」と呼ばれる特殊なエネルギーが存在するだけでした。
ここで言う真空エネルギーとは、普通の物質とは違い、空間そのものが持つエネルギーのことです。
この真空エネルギーが、インフレーションという猛烈な膨張を引き起こしました。
風船を膨らませるには内部に空気の分子という物質を注入する必要がありますが、このインフレーションが引き起こしたのは物質ではなく空間に存在する真空エネルギーそのものです。
そのためこの段階の宇宙は「物質の概念と連動する意味での高密度状態」ではありません。
なにしろ通常の物質としての粒子は一切存在せず、真空エネルギーが空間全体に広がっているだけなので、「粒子の密度」という概念自体が存在しない状態なのです。
では宇宙はいつごろビッグバンが起こる「高密度状態」になったのでしょうか?
それは、このインフレーションが終了する瞬間に起こります。
インフレーションが終わると、それまで空間全体を満たしていた真空エネルギーが一気に粒子へと変換されます。
イメージするなら、空間そのもののエネルギーが爆発的に粒子へと姿を変え、一瞬にして宇宙は熱くて密度の高い状態に切り替わるのです。
では、なぜこの真空エネルギーが粒子に変わってしまったのでしょうか?
その秘密は、真空エネルギーの不安定さにあります。
インフレーション期の真空エネルギーは、例えるなら「丘の頂上にそっと置かれたボール」のようなものです。
一見すると静かで安定しているように見えますが、わずかなきっかけがあれば劇的変化を起こします。
実際、宇宙誕生の瞬間の真空エネルギーも、ほんの些細な量子ゆらぎによって、この安定性を失ったと考えられています。
真空エネルギーが安定を失うと、それまで空間を満たしていたエネルギーは一気に解放され、別の状態へと移り変わります。
このエネルギー解放の過程で、エネルギーの一部が「粒子」という形へと変換されました。ここで重要なのは、アインシュタインの有名な方程式『E=mc²』です。
エネルギー(E)は質量(m)に変換可能であり、エネルギーが大量に放出されると、それが粒子という具体的な形となって現れるのです。
この真空エネルギーから粒子が現れる現象こそが、「再加熱(リヒーティング)」と呼ばれています。
再加熱とは、まさにインフレーションが終わった瞬間に起きた「宇宙の再誕生」の出来事と言えるでしょう。
それまで物質のない「空っぽ」の空間だった宇宙が、熱くて密度の濃い「物質で満たされた状態」へと劇的に転換されたのです。
再加熱で現れた粒子は、非常に高温で高密度の火の玉状態を形成しました。
これが現代宇宙論で言うところの「ビッグバン」です。
つまり、ビッグバンは宇宙が無から突如として現れた出来事ではなく、真空エネルギーという空間のエネルギーが粒子に姿を変え、宇宙が物質で満たされた出来事だったのです。
言い換えれば、私たちが昔から耳にしてきたビッグバンとは、宇宙の始まりそのものではなく、インフレーションという急膨張が終わった後、宇宙が粒子で満たされて高温高密度な「火の玉」状態になったその瞬間を指すのです。
そこから先の宇宙の物語は、これまで知られてきたものと同じです。
高温で密度の濃い宇宙は、少しずつ膨張して冷えていき、最初は素粒子、やがて原子が作られ、恒星や銀河が形成されて、最終的に私たちが生きている現在の宇宙が生まれたわけです。
つまり、現在の一般的な宇宙の歴史の理解は、
①インフレーション(真空エネルギーによる急激な膨張)
↓
②再加熱(ビッグバンと呼ばれる高温高密度状態の開始)
↓
③宇宙の膨張と冷却
↓
④恒星や銀河の形成
↓
⑤現在の宇宙
という流れなのです。
私たちの宇宙の真の始まりを理解するためには、もはやビッグバンだけを見ていては足りません。
その前の時代、インフレーションという宇宙の「出生前」の出来事を見つめることが必要なのです。
そしてこれまでの理論では、暗黒物質も他の物質と同様にビッグバンの時に空間から出現したと考えられていました。
しかし新たな理論は暗黒物質に限って言えばビッグバン以前のインフレーション時代に、他の物質に先駆けて誕生したと提唱されています。
ではなぜ暗黒物質だけフライングして宇宙に誕生することになったのでしょうか?