「月に50万円は簡単」発言で大炎上の黒沢年雄(81)、批判意見に大反論「時代のせいにしてる人は、何をやってもダメ!」「若いうちはパワーがあるんだから」当時の「ヤバすぎる働き方」(NEWSポストセブン)|dメニューニュース

ブログ上の内容がたびたび炎上する黒沢が真意を語った(本人のブログより)

 銀幕のスターであり、独特の低音ボイスでヒット曲『時には娼婦のように』を歌った俳優・黒沢年雄(81)。激動の時代を生き抜き、がんや白内障などの重病も乗り越えた黒沢だが、最近は自身の考えを綴ったブログの内容が“プチ炎上”することも。

「その気になれば月に50万位は簡単だ!」——今回賛否を呼んだのは、8月21日に投稿した『世の中は宝の山だぜ(笑)』というタイトルの投稿に書かれた一文だ。〈当時とは社会状況が違う〉〈ご気楽なコメントは控えてください〉などと主に現役世代や若者と見られる読者から批判的なコメントが殺到。この投稿の真意はどこにあったのか。本人に聞くと、黒沢は持論を炸裂させるのだった——ライター・河合桃子氏が聞いた。【前後編の前編】

「親が悪い!」と話す過去

〈インチキアルバイトで一回三万?!…頭が回らない人だ〉——炎上した投稿『世の中は宝の山だぜ(笑)』で、初っ端からこう切り出した黒沢さん。一体何を見聞きして、このようなブログを書いたのか。

「最近、テレビやニュース記事なんかにも“闇バイト”だ“特殊詐欺”だって文言が飛び交うでしょ。見れば大体、そういう犯罪に加担するのは若者らしいじゃない。もうさ、犯罪に手を染める若者もダメだけど、なにより親が悪いよね」(黒沢、以下同)

 闇バイトに手を出す若者のニュースを見て、このブログを書いたという黒沢さん。「親が悪い」とはまた、火に油を注ぐようなことを——。

「僕の家は父がボイラー技士で稼ぎが悪く、母は内職をしながら家計を支え、苦労して僕ら4人兄弟を育てたんです。そんな母は僕が16歳の時に亡くなり、僕は自暴自棄になったのよ。一歩間違えたらヤクザになる寸前で、ヒロポン(敗戦後、日本軍の放出物資として市販薬として出回った覚醒剤)もやりかけた。

 ギリギリの所で思い止まったのは、苦労する母の姿を覚えてるから。こんなことしたら申し訳が立たないと、いつもその思いが胸にあった。特殊詐欺なんかやる人の親は、子に真っ当な道で生きる志や、この世界で生き抜く強さを背中で見せなかったんでしょう。スマホばかり見て子供に寂しい思いさせたりね」

 特殊詐欺に加担する人々の背景や家庭環境はまたそれぞれだろうから一概には言えないはずだ。16歳の頃の黒沢さんが悪事に身を染めなかったのにはもうひとつ大きな理由もあったという。

「俺は4人兄弟の長男だから、とにかく弟らを食わさないといけない。やんちゃしてたらダメだと心を入れ替え、『金ほしさ』に有名になってスターになるって思った。

 演技なんて本当は嫌いなんだけどさ、俳優はいろんな役を演じるから、とにかくいろんな仕事を経験して金を稼ぐことでどんな役が来ても良いように勉強を兼ねてガムシャラに働いた。昼は車とミシンとベッドの営業を同時にやって、夜はキャバレーのボーイ、その後は朝までバーテンダーをやりました」

「そういう人は文句だけ言って20万だか30万で我慢しちゃってる」

 今の時代では考えられないような働き方をしていた黒沢さん。昼も夜も働き、睡眠時間はいつ取るのか聞くと、「営業のノルマを達成したら、映画館で演技の勉強しながら寝るんです」と笑う。

「もちろんただ体力に任せて働くのではなく、キャバレーに来る社長さんに好かれて車やベッドの営業話を持ちかけるとか、頭をフル回転してお金に変えていくんですよ。お金になるならなんでもやりましたよ」

 黒沢さんの若かった頃と今では、経済状況や労働環境がまるで異なる。個人が努力して稼ぐ喜びを得られた時代は移ろい、現役世代は税金や社会保険料、両親の介護等の負担も増しているだろう。そんな負担についても聞くと、即答でこう返ってきた。

「そういうこと言ってる人は、何をやってもダメ!」

 そしてこう続けるのだった。

「なに、会社員は税金と社保で半分取られてしまうから、手取り20万や30万円でなんとか暮らしてるんだって? だからさ、そういう人は文句だけ言って20万だか30万で我慢しちゃってるんでしょう。時代のせいにしちゃだめだよ。若いうちはパワーがあるんだから、夜に副業でもなんでもしなさいよ」

40歳で亡くなった母に告げられた言葉

 ヒートアップしてきましたね、黒沢さん。睡眠時間を削ってでも働いてきた黒沢さんだから言えることだろうが、それでは健康に影響が出るだろう。現に黒沢さんは40代後半から大腸がんに膀胱がん、複数回の胃がんや食道がんなどにかかり、8度の手術を受けている。

 それらは若い時の無理が祟ったからなのではないか——そう問うと、「そんなこと思ったことない!」と断言。

「最初の大腸がんは1992年の正月、47歳の時だね。3年前から下血はしてたんだけど、かかりつけ医から『痔』だと言われてた。でも宿泊先のハワイのホテルのトイレで大量の下血したのをきっかけに専門医で検査したら『S状結腸がん』と診断された。俺はここで死ぬのか……そう思うと絶望した」

 死がよぎるほど、初めてのがん告知は黒沢さんにとっても衝撃だった。まだ47歳、2人の子供も育ち盛りだったからだ。

「俺がここで死んだら妻子を守れなくなると考えると、号泣してしまったよ。それに、40歳の若さで『としお、頼むよ…』って、か細い声を最期に逝った母の言葉を思い出し、その心残りたるやいかほどかと、また泣いてしまった。そこで、俺はここで死んじゃならないと決意したんだ。

 その後もいろんな癌をやったけど、若い時の無理だなんだと思ったことがない。大切なのは今とこれからだから」

 黒沢さんは、先の特殊詐欺に加担する若者への思いを、こうも語った。

「彼はただただ目の前の金に目が眩み、それを思い止まる『守るもの』がないんじゃないか? 僕のように、母のか細い声がよぎるとか、自分が今生かされているのは誰のおかげで、誰のために生きたい、とかさ」

 壮絶な人生をフルパワーで生き抜いてきた黒沢さんの言葉には、確かに説得力もある。現在は高級シニアマンションに入居し「人生上がった」黒沢さんだが、話を聞き進めると、なんと今の本人は労せず、汗をかかずに「お金を転がしている」というのだ——後編記事で詳報する。

(後編につづく)

◆取材・文/河合桃子(ライター)

関連記事: