メジャー直訴も「出せない」 "一蹴"された阪神エース…米打線圧倒も消えた夢の移籍

 メジャー挑戦の夢も抱いた。阪神などで活躍した右腕・川尻哲郎氏はプロ4年目の1998年にノーヒットノーラン(5月26日の中日戦、倉敷)を達成するなど10勝5敗の成績を残した。防御率は自己ベストの2.84。オールスターに初出場した。日米野球でも11月11日の第4戦(大阪ドーム)に先発し、メジャー通算216勝の剛腕・カート・シリング投手と投げ合って8回1/3を無失点で勝利投手。飛躍のシーズンになった。

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 1998年5月26日の中日戦で史上66人目のノーヒットノーランを成し遂げた川尻氏は、快挙から中4日の5月31日のヤクルト戦(千葉)に先発した。「ピッチャーがいなかったんですよ。中4日だと言われて、えっ、そうなんですかって。まぁ調子も悪くないし、わかりましたと言いましたけどね」。結果は7回無失点でシーズン4勝目。5月の月間MVP(4勝0敗、防御率1.54)にも輝いた。「確か19回(連続)無失点だったんですよね」。

 6月7日の横浜戦(札幌)に先発して初回に1点を失って連続無失点はストップしたものの、5回1失点シーズン5勝目を手にした。「その時はね、肘が痛くなって降板したんです。何とか5回までは投げたんですけど痛くて、痛くて、とりあえずストライクゾーンに投げて打たせちゃおう、みたいな感じでね。初めてじゃないかなぁ、肘が張っていると言って代わったのは」。

 その試合はデーゲームだったが、実は朝まで飲んでいたという。「そうなんですよね。で、肘が痛くなって降板したというね」と川尻氏は笑いながら説明したが、その状態でも勝ち星をつかんだのだから、まさに乗りに乗っていたということだろう。監督推薦でオールスターに初出場。7月23日の第2戦(千葉)の7回に4番手で登板して1回無失点、打者3人に無安打1奪三振と無難に抑えた。だが、こちらはあまりいい思い出がないという。

肩身が狭かった球宴…長嶋監督に“直訴”で日米野球に出場

「その年に阪神からオールスターに出たのは僕と今岡(誠内野手)だけ。阪神は弱いチームだったから少ないわけですよ。何かすごく肩身が狭い思いだった覚えがありますよ。スター選手みたいなのはヤクルトとか巨人とか。その辺が強い時だったしね」。阪神は後半戦も8月4日から泥沼の12連敗を喫するなど、低迷が続いた。その間の8月9日のヤクルト戦(神宮)に先発した川尻氏は2回に稲葉篤紀外野手への危険球で退場になった。

「相手先発が(日産自動車で同僚の)北川(哲也投手)だったんですけど、そんな形で僕が先に降りちゃったんですよね。でも、あの時、当たった稲葉は平然と一塁まで走っていきました。俺の真っ直ぐはそんなに力ないのかって思いましたけどね」と苦笑したが、そんな試合もありながらも、チームがずっと弱いなかでも、勝ち星を積み重ねた。8月27日の横浜戦、9月3日のヤクルト戦(いずれも甲子園)では2試合連続完投勝利もマークした。

 9月18日の巨人戦(甲子園)で2年ぶりの2桁勝利に到達。阪神は最下位に終わったが、キャリアハイの防御率2.84(セ・リーグ5位)と奮闘した。さらに11月の日米野球でも好投した。「日米野球への出場は2回目だったんですけど、この時は最初選ばれていなかったんです。でも、出たい気持ちがあったんで知り合いの記者を通じて『欠員が出たら呼んでください』という(全日本監督の)長嶋(茂雄)さんへの伝言を頼んでいたんです」。

 実際に欠員が出て選出され、第4戦(11月11日、大阪ドーム)に先発して8回1/3を無失点で勝利投手になった。1-0の緊迫ゲームでの快投だった。「その先発も急遽だったんです。先発予定だった西村(龍次投手)が肩が痛くなったとかで、球場に行ってから(投手コーチの)尾花(高夫)さんに『投げれるか』と聞かれたから『いいですよ』と言って先発になったんです」。いろんなことが重なってのマウンドだった。

「とりあえずボール動かしとけって思いながら投げていた。反応をみようと思ってね。そしたら意外と打たれなくて、すぐ5回まで投げちゃった。本当は5回の予定だったんです。でも抑えていたので『もうちょっといけるか』と言われて『いいっすよ』って。そしたら7回までいっちゃったわけですけど『じゃあ、もういいよ』ってなった。その時は大塚(晶文投手)が近鉄だったし(大阪ドームは)地元だから投げさせなければいけないというのもあったと思う」

9回途中まで無失点で勝利投手…オフにメジャー移籍直訴も却下

 7回を投げ終えた川尻氏は「お疲れです」と言ってロッカーに着替えに行った。「もう着替えていたんですけどね。そしたら古田(敦也)さんと清原(和博)さんが来て『日米野球で完封したヤツは今までいないから投げろ、長嶋さんのところに行ってこい』って。それでもう1回ユニホームを着て、長嶋さんに続投をお願いしたら『じゃあ、打たれるまで行ってみるか』と言ってくれたんです。で、9回までいったんですよ」。

 9回1死からアスレチックスのジェイソン・ジオンビー内野手に安打を許し、ブルワーズのフェルナンド・ビーニャ内野手に死球を与えたところで交代となった。2番手の大塚もゼロで抑え、完封リレーで全日本が勝ったが「ビーニャのデッドボールはね、ストライクに足を出して当たってきたわけですよ。えって思った。一、二塁になったんで長嶋さんも(交代を)決断したんでしょうね。まぁ、あそこで完封していればねぇ……」。

 オフの契約更改交渉で、川尻氏は阪神にメジャー移籍希望を伝えたという。球団の反応は「エースだから出せない」というものだったそうだ。「そんな簡単に行ける時代ではなかったですからね」と言うが「僕は2000年の日米野球も出ているけど、その時も先発して6回までゼロに抑えた(7回に2失点)。トータルでは14回か15回くらい(連続)無失点だと思う。これ日米野球の記録のはずですよ。(メジャーに)行ったら、できるんじゃねぇってのもあったんですけどね」とも語った。

 プロ4年目の1998年はノーヒットノーランなど「いろんなものが詰まっている年だったかなって気がしますよね」と川尻氏は振り返った。この時に芽生えたメジャー挑戦の夢。実現はならなかったが、その思いは以降も持ち続けた。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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