【連載】『魁!! 男塾』の宮下あきら先生のロングインタビュー第4弾「他の先生との交流はあったんですか?」
今からさかのぼること40年前。少年ジャンプ22号にて我らが『魁!! 男塾』の連載が始まった。そうそうたるタイトルが並ぶ中、足掛け6年、コミック数34巻は当時としてはかなりの長期連載と申し上げていいだろう。
小学生の頃、その『魁!! 男塾』を必死に読み漁っていたのが私、P.K.サンジュンである。この記事は『魁!! 男塾』の作者・宮下あきら先生のロングインタビュー第4弾をご覧いただこう。
・イス取りゲーム
紆余曲折を経て『魁!! 男塾』が連載を開始した当時、少年ジャンプは黄金期を迎えつつあった。裏を返せば熾烈な席取りゲームが繰り返されていたワケで、人知れず打ち切りになった作品も少なくない。
そんな中、漫画家として着実にキャリアを積み上げていた宮下あきら先生。まずは男塾が連載してしばらくの間のことを伺ってみることにした。
宮下先生「それまで何本か連載を経験していたこともあって、男塾の頃にはだいぶ人に任せることが出来るようになっていた。アシスタントが4~5人いて、ある意味で脂がのった状態だったと思う。
男塾は6年連載してたけど、1度も原稿を落としたことは無い。コミックも売れてたし、おそらく人気もあったんじゃないかな。正確な数字ってのは実はよくわかってなかったんだ。
ただ気は抜かなかったね。あの頃のジャンプは厳しいから油断したらすぐに連載終了だよ。『先生、あと3話で終わらせてください』ってさ。
当時は集中してたし、相当なエネルギーを使っていたんだと思う。それが作品にも出てたんじゃないかな? 同じことをもう1度やれって言われたって出来ないよ(笑)」
男塾に全エネルギーを集中させていた宮下先生。ところが話によると宮下先生の流儀は、他の漫画家の先生たちとは一線を画すものだったらしい。
宮下先生「男塾の頃は、担当の編集が事務所で寝てるなんてしょっちゅうだったよ。一緒にメシも食いに行ったし、飲みにも行った。今じゃ考えられない時代だったかもね。
これは漫画家によるんだろうけど、俺は自分の頭の中にあるもので勝負できる自信があったしネームも描かなかった。原稿ぶっつけで描き始めて、担当が見るのは原稿が完成してから。だから担当も不安だったと思うよ。
ネームが無いからアシスタントも大変だっただろうね(笑)。ただネームがないことで、即興的なアドリブの面白さはあったんじゃないかな。あらかじめ決まってないからこそ表現できたこともあると思うよ」
・他の先生たちとの交流について
ネームを描かないという、驚きの手法で作品を完成させていた宮下先生。非常に器用である一方で人付き合い、特に編集者との付き合いは不器用だったようだ。
宮下先生「自信はあったけど、俺は器用じゃないから結局のところ男っぽい漫画しか描けないんだよ。女の画は苦手だったよね。女性の画が苦手じゃなくなったのは、だいぶ後になってからだな。
当時はちょっとした悩みがあっても編集には頼らなかった。後から聞いた話だと、鳥山明先生は原稿をボツにされたこともあったみたいだけど、とんでもないよ。俺は原稿をボツにされたことは1度もないし、させるつもりもなかった。
漫画家には色んなスタイルがあるんだろうけど、人付き合いって部分でいえば俺は不器用だったんだと思う。不器用なのにテングになってたら、そりゃ嫌われるよ。やっぱり俺が悪いな(笑)」
人付き合いが苦手であっても男塾が続いていたということは、それだけ男塾の人気があったという証拠なのかもしれない。ところで他の先生たちとの交流は無かったのだろうか?
宮下先生「集英社には「手塚賞」と「赤塚賞」ってのがあるんだ。そのパーティーが半年に1回開催されて、そのときだけ他の先生と顔を合わせてたね。それこそ都内の超有名ホテルで300人規模で開催されてたよ。
パーティーはアシスタントも参加OKだったから、みんな喜んじゃってね。見たこともない高級料理が食べ放題なんだから(笑)。芸能人も来てたし、いま思えばすごいパーティーだよな。
ただ漫画家ってのはそこまで横のつながりがある仕事ではないんだよ。パーティーで会えば挨拶くらいはするけどね。でも当時発売されたジャンプは一通り読んで、刺激は受けていたよな」
そんな中でも、アシスタントを務めていた高橋よしひろ先生、また『高校鉄拳伝タフ』の猿渡哲也先生とは交流があったそう。それにしても「手塚賞」と「赤塚賞」のパーティー、すごすぎる。
──というわけで、今回はここまで。次回はファン待望の「男塾」を掘り下げた話をお伝えしよう。男塾ファン必見の「江田島平八」「キャラを生き返らせた理由」等をお届けする予定だ。
参考リンク:宮下あきら公式X 執筆:P.K.サンジュン Photo:RocketNews24. Ⓒ宮下あきら. Ⓒ集英社.