天皇皇后両陛下の広島訪問ではっきりした…皇室研究家が「愛子天皇しかない」と確信した"場面" 3代にわたって引き継がれた広島への思い

天皇、皇后両陛下が、6月19日から20日の2日間、即位後初めて広島を訪問された。神道学者で皇室研究家の高森明勅さんは「令和の皇室において、昭和天皇以来の平和への願いをはじめとする高貴な精神を、上皇陛下、天皇陛下から直接に受け継いでおられるのは、敬宮殿下お1人だけだ」という――。

広島平和記念公園の慰霊碑(写真=Mikeo/PD-self/Wikimedia Commons

天皇皇后両陛下におかれては、今年(令和7年)が戦後80年の節目にあたるため、先の大戦における戦没者の霊を慰め、遺族や関係者の労苦をいたわられる「慰霊の旅」を続けておられる。これまでに硫黄島(4月7日)、沖縄県(6月4・5日)へと行幸啓を重ねてこられた。沖縄へは敬宮としのみや(愛子内親王)殿下もご一緒された。

両陛下はさらに6月19・20日にかけて、広島県にお出ましになった。

広島では昭和20年(1945年)8月6日の原子爆弾の投下によって、同年末までに約14万人が亡くなったとされる。想像を絶する死者の数だ。しかも、放射線を大量に浴びたことに起因する原爆症などの被害は、多くの人たちを長く苦しめた。

天皇陛下は、浩宮ひろのみや殿下と呼ばれていた時代を含めて、今回で11回目のお出ましになる。最初に現地を訪れられたのは昭和56年(1981年)の学生時代だった。

皇太子として初めてのご訪問は平成4年(1992年)。この時は、広島赤十字原爆病院をご慰問に訪れられた。

ご成婚翌年の平成6年(1994年)には、両陛下おそろいでのお出ましだった。広島アジア大会(第12回アジア競技大会)へのご臨席がおもな目的とされた。しかし、まず爆心地近くの平和記念公園や原爆養護ホームに向かわれている。この時は、初めて皇后陛下とご一緒されたので、より熱狂的な歓迎ぶりだった。

両陛下おそろいでの広島ご訪問は、敬宮殿下がお生まれになる前年、平成12年(2000年)が最後になっていた。天皇陛下の最も近くのお出ましは平成18年(2006年)。今回は即位後で初めての行幸啓になる。

この度はご一緒されなかった敬宮殿下の存在の大切さが浮かび上がる場面もあった。それはのちに取り上げる。


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2日目は平成26年(2014年)8月の土砂災害でとくに被害が大きかった広島市安佐南区八木地区を訪れられた。同地区では、23人が亡くなった。両陛下は頭を下げて犠牲者に黙礼された。

その後、砂防堰堤えんてい(砂防ダム)の整備状況を視察された。さらに近くの広島市豪雨災害伝承館をご視察。

同館では、被害の伝承や防災対策の啓発に加えて、被災者同士がそれぞれの思いを語り合う場を提供する。語り合うことで、悲しみを和らげ、心を安らかにすることが目的という。

天皇陛下は「素晴らしい活動です。語り合うことで安らぐこともあるのですね」と地元の取り組みをねぎらわれていた。

災害で家族を失った被災者らとも、懇談の機会を持たれた。お声をかけていただいた人たちは、それぞれ励みになり、救われるようなお言葉をいただいた、と感想を述べている。

その後、広島市内の原爆養護ホームを訪問され、10人の被爆者らと懇談された。その中には、今年の10月に百歳になる女性(森永ヨシコさん)もおり、陛下にお声をかけていただいたことを、「嬉しかったですねー」と笑顔で手を合わせて感謝していた。

皇后陛下の和歌に込められた思い

両陛下の広島への行幸啓をめぐっては、被爆者で元原爆資料館の館長だった原田浩氏のコメントが興味深い。同氏は平成7年(1995年)に上皇上皇后両陛下が天皇皇后として、平成8年(1996年)に天皇皇后両陛下が皇太子同妃として訪れられた時に、それぞれご案内していた。

その原田氏が目を向けたのが、皇后陛下が昨年の歌会始でお詠みになった和歌だ。

広島を はじめて訪とひて 平和への

深き念おもひを

吾子あこは綴れり

このみ歌について、宮内庁は以下のような解説をしている。

「愛子内親王には、中学3年生5月の修学旅行の折に初めて広島を訪れられました。広島では、原爆ドームや広島平和記念資料館の展示などをご覧になって平和の大切さを肌で感じられ、その時のご経験を深められた平和への願いを中学校(学習院女子中等科)の卒業文集の作文にお書きになりました。 日頃から平和を願われ、平和を尊ぶ気持ちが次の世代に、そして将来にわたって受け継がれていくことを願っていらっしゃる天皇皇后両陛下には、このことを感慨深くお思いになりました。この御歌は、皇后陛下がそのお気持ちを込めてお詠みになったものです」

この解説にあるように、このみ歌には皇后陛下お一人だけではなく、両陛下のお気持ちが込められていると拝察できる。

原田氏は、これが敬宮殿下の作文「世界の平和を願って」を踏まえられたものである事実から、「親子3代にわたって、広島の願いをきちっと受け止めていただいていた」との感慨を述べている。


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初日は、奉迎のために多くの県民が沿道に並ぶ中、平和記念公園を訪れられた。公園にある広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)に白いユリなどを供え、34万人あまりの死没者名簿を納めた碑に、両陛下はおそろいで深々と拝礼された。

慰霊碑の近くにある火台「平和の灯」についても、説明を受けられた。この灯は昭和39年8月1日に点火されて以来、燃え続けている。世界の恒久平和を願い、核兵器が廃絶されるまで燃やし続けるという。

令和4年(2022年)に新設された被爆遺構展示館や、広島平和記念資料館(原爆資料館、昭和30年[1955年]に開館)を訪れられた。同館では90代の3人の被爆者などと懇談される機会も設けられた。

お泊まりのホテルの近くの公園には約5000人の県民が提灯を持って集まり、国歌「君が代」を歌い、提灯を振って奉迎の気持ちを表した。両陛下もお部屋の明かりを消し、浮かび上がる2つの提灯を揺らして人々にお応えになった。

「君が代」がタブー視されていた時期も

広島ではしばらく、学校教育の中で「君が代」がタブー視されていた時期があった。平成11年(1999年)2月には、県立世羅高校の校長が、卒業式で国歌の斉唱を求める文部省(当時)の指導に従う教育委員会と、それに反対する教職員組合との板挟みになって、ついに卒業式の前日に自殺するという痛ましい事件があった。

それまで慣習法として定着していた国旗「日の丸」と国歌「君が代」について、あらためて成文法として根拠を明確化した国旗・国歌法が施行されたのは、同年8月だった。この事件は同法制定の一つのきっかけになったとも言える。

そのような時期もあった広島において、両陛下への奉迎行事として、多くの県民が声を合わせて「君が代」を斉唱した光景は、印象深いものがあった。

一方で、少数のヘルメットをかぶった左翼セクト活動家などによる反対の動きも報道された。だが、一般の市民からは浮き上がっているように見えた。

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