〈夏休み最終日SP〉春風亭一之輔、「俺、本当に横浜流星じゃなくてよかった」 映画「国宝」をカミさんと観に行って気づいたこと

落語家・春風亭一之輔 この記事の写真をすべて見る

8月31日は多くの学校で夏休みの最終日。子どもも、その世話に明け暮れた親たちも夏の最後を惜しむ日だろう。夏の名残を感じさせる過去の記事を特別に紹介する(この記事は、7月13日に配信した内容の再掲載です。すべての情報は当時のままです)。

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落語家・春風亭一之輔さんが連載中のコラム「ああ、それ私よく知ってます。」。今回のお題は「国宝」。

 映画「国宝」が話題。

 私は6月11日に観た。公開日が6月6日なのでけっこう早いほうだと思う。

 前評判がとても良いのでカミさんを誘った。基本的に映画は一人で観ることにしている。他人を誘ったときに、その人の反応が気になって映画に身が入らないからだ。

 だが「国宝」はカミさんと観ようかと。いつも一人で硬い重めなドキュメンタリー映画ばかり観ているが、「国宝」は二人で観たほうがいろいろ語り合えていいんじゃないかと。きっと家内も気に入るだろうと踏んだのだ。頼むぞ、「国宝」。

 お互いのスケジュールを摺り合わせると、ちょうどいいのが「ユナイテッド・シネマ としまえん、6月11日の朝8時30分」の回だけだった。

 自宅を7時50分に出れば間に合うか。なかなかな早さ。ということで前日は22時には就寝。映画を観るために早寝したのは初めてかもしれない。それくらいのかんじなんだから、頼むよ、「国宝」。

なんて慌ただしさだ

 翌朝、6時30分起床。家内はもっと早く起きて朝食を作っている。まず洗濯をせねば。いつもは8時30分過ぎに洗濯機を回し始めるのだが、今日は「国宝」のために7時45分までに全て干し終えなければならない。

 洗濯の最中に、昨日までに乾き上がったものを畳みまくっていると、7時10分には洗濯機が止まった。干しまくる。天気があまりよくなさげ。室内に干し、除湿機のスイッチを入れるが「満水マーク」が点滅している。水をタンクから流しに捨てる際に勢い余ってパジャマがびしょびしょ。クソ! 「国宝」を観ようってのにまた洗い物が増えたじゃないか。慌てるとろくなことがない。

 除湿機をガンガンにかけ、着替えを済ませ朝食。そうだ! 「国宝」の前に「あんぱん」を観なければ! 今日に限ってNHK BSの7時30分からの「あんぱん」を観る。なんて慌ただしさだ。


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 食洗機を回し、コーヒーを飲もうかと思ったが、「トイレが近くなるからいらない」と家内が言う。「国宝」って上映時間が2時間55分もあるのね。50近いとトイレが心配になるのも無理はない。「事前にを食べるといいらしい」「ボンタンアメが尿意を抑えてくれるそうだ」と家内が対尿意情報をくれる。なるほど、コンビニや駅の売店で昔ながらのボンタンアメを置いているのはそのせいなのか。どこに需要があるのか不思議だったのだが「しょんべん抑え」のためだったのか、あの南国銘菓は。

 「国宝」のために子供たちより先に家を出る。途中、二人で歩き始めると家内が眼鏡を忘れたといって取りに戻った。「おら、先に行くよ」としばらく駅に向かって歩いていると、眼鏡をかけた家内が自転車でサーッと追い抜いて行く。出かけるときのうちの夫婦あるあるである。駅のエスカレーター前でカミさんが待っている。負けたような気がするのはなぜだろう。

 電車を乗り継いで、豊島園駅に。昔、この辺りに住んでいたので最近の変わりように驚く。「駅前のがってん寿司がなくなってる!!」「ずいぶん前からじゃない?」「そうだっけ?」

正体不明の和風インスト

 子供が小さい頃、よく家族5人で通ったものだ。そして、まだ全然仕事がなかった頃、家内が働いてるあいだによく昼からビールを飲んでいたものだ。がってん寿司もボーネルンドの遊び場もポポラマーマもひもの屋もスタバも、そして肝心のとしまえんもなくなって、眼鏡をかけた魔法使いのガキ一色の豊島園駅前。がってん寿司の店内に流れていた正体不明の和風インストを鼻唄で歌いながら映画館へ急ぐ。

 水曜日のサービスデーだったこともあり満員の客席。

 予約しておいてよかった。

 上映開始…………そしてあっという間に2時間55分が経った。まるで長く感じなかった。むしろもっと観ていたい。そんな3時間弱だった。


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 帰途、豊島園駅の改札までほぼ無言。「よかった」「すごかった」「素晴らしかった」、一体なんと家内に感想を伝えればよいのだろう。語りたいくせにこれが苦手なのだ。何を言っても安直で陳腐にしか聞こえないし、何も言わないのもおかしなものだし。なんとか捻り出せ、俺。

 数分後。

「……俺、本当に横浜流星じゃなくてよかった」

汚れもときどき綺麗に拭く

「? どういうこと?」

「横浜流星じゃなくてよかったよ……だってもし俺が横浜流星だったら『国宝』のオファーがきたら受けるよ。もちろんオファーは受けるけど、俺にはあれだけのパフォーマンスをするのはどう考えても無理だ。絶対出来ない。1年以上かけて日本舞踊、歌舞伎の所作、古典の勉強、セリフ覚え……そのあいだに、『べらぼう』のオファーがくるのか、もうきてるのか、やろうか、やるまいか、そんなことを考えながら、また他のドラマ撮ったり、なんかのテレビ出たり、どっかのインタビュー受けたり、その合間に摺り足したり、踊ったり、セリフ覚えたり、本読んだり。もちろん、メシ食ったり、風呂入ったり、寝たりという人間としてのいつもの活動はするんだろ? どう考えても時間が足りなすぎる。もし俺が横浜流星だったとしても、出来れば春風亭一之輔としての活動も残しておきたい。だってそれをしないとおかしくなってしまうから。寄席には出るよね。上野鈴本、新宿末廣亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場、自分の独演会、地方の落語会、全国ツアー、ラジオ、コラム執筆……洗濯もしなきゃいけない。洗い、すすぎ、脱水、乾き上がったら畳んで、それぞれのタンスに収めたり。水曜日と土曜日には燃えるゴミを出す。とくに水曜日は8時きっかりに収集車がくるから必ず7時55分にはゴミを出す。トイレは座ってする。便座の裏っかわについた汚れもときどき綺麗に拭く。その合間にまた日本舞踊の稽古稽古稽古。歌舞伎の所作所作所作。そんなの出来るわけがない。もし俺が横浜流星だったら『国宝』はこんな素晴らしい作品にはなってなかっただろうし、我が家のトイレの便座の裏も汚れたままだったかもしれない。もうダメだ!って本業たる落語も投げ出していただろう。俺が横浜流星だったら俺は『国宝』のプレッシャーに押し潰されて、こうして君と『国宝』を観ることなど叶わず、今ごろどうにかなってしまっただろう。だから俺は心から横浜流星じゃなくて本当によかったと思うよ……」

「………」

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