権力継承も視野に入れた環境整備か? 金正恩政権の新憲法を深読みする【礒﨑敦仁のコリア・ウオッチング】

 北朝鮮の憲法が改正された。3月の最高人民会議で韓国との「統一」に関する憲法の記述が削除され、分断された南北朝鮮を「別の国家」として捉え直す方針が一層明確化されたものとして日本でも報道されたから、ご存じの読者も多いかと思う。かつては朝鮮労働党の機関紙『労働新聞』に全文が掲載されたり、朝鮮コンピューターセンターのポータルサイト「ネナラ(わが国)」で突然公表されたりした憲法だが、なぜか近年は完全非公表となっており、各国の情報機関やメディアが入手にしのぎを削っている。

 過去には米国系メディアが世界に先んじて入手したこともあったが、今回は韓国政府に軍配が上がった。5月6日に韓国統一部が新憲法の条文(全168条)を公開したのである。北朝鮮自身が全文を公表していない以上、真偽のほどを断定することはできないものの、その内容はいずれも近年の北朝鮮の論調変化に沿っており、不自然さはほとんどない。金正恩(キム・ジョンウン)政権の今後の出方を予測するうえで参考になる内容なので、詳しくみていきたい。

 憲法が改正されたのは3月22、23両日、平壌(ピョンヤン)で開催された最高人民会議(立法機関に相当)第15期第1回会議である。北朝鮮では憲法改正はめずらしいことではなく、特に現政権下では何度も変更が加えられているのであるが、今回は憲法そのものの名称変更を伴うほどの大幅改正であった。従来の「朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法」から「朝鮮民主主義人民共和国憲法」へと改称されたのである。

 名称から「社会主義」が外れたとはいえ、新憲法の序文は「朝鮮民主主義人民共和国は、朝鮮人民の利益を代表して社会主義偉業のために闘争する人民大衆中心の社会主義国家である」との一文で始まる。憲法全体では計38回も「社会主義」に言及しており、北朝鮮が社会主義を放棄したわけではなく、改正後も堅持していることは明らかである。

 そもそも、北朝鮮が初めて制定した憲法の名称に「社会主義」はなかった。1948年9月、ソ連の強い影響下で建国した際に定めた時には、シンプルに「朝鮮民主主義人民共和国憲法」という名称であった。ソ連のスターリン首相になぞらえ、初代指導者の金日成(キム・イルソン)もこの憲法に基づき「内閣首相」に就任した。

 「社会主義」を冠するようになったのは1972年12月。中国の国家体制を一部取り入れ、国家元首を首相から主席に変更した新憲法「朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法」が採択されてからである。韓国と激しい体制間競争を展開するなかで、朴正煕(パク・チョンヒ)政権が同年10月に「維新憲法」と呼ばれる改正案を発表したことを強く意識したものであった可能性が高い。

 であるならば、半世紀ぶりに最初の名称に戻った今回の憲法改正にも、韓国と向き合う北朝鮮の姿勢が反映されていると考えるべきだろう。つまり、金正恩国務委員長が南北統一を放棄し、韓国とは別個の国家として歩む方針を鮮明にしたという事情である。「資本主義か社会主義か」の体制間競争に区切りを付け、ほかの多くの国家がそうしているように、国号のみを憲法の名称に付したまでだ、と言うこともできる。

注目に値する北朝鮮の「領域」認識

 さて、冒頭でも触れた通り、今回の憲法改正で最も注目された点は、韓国についての記述であろう。とはいえ、これも予想された範囲内ではあった。金正恩委員長は2024年1月に、憲法を改正して韓国を「第一の敵国、不変の主敵」と位置付け直すよう指示していたからである。同年10月の最高人民会議では、内容は非公表のまま憲法が一部改正された事実が発表された。

 発表の直後、北朝鮮側は南北を結ぶ道路や鉄道線路を爆破。この行為を「大韓民国を徹底的な敵国と規定した憲法の要求」に基づいたものだと主張した。当時は新憲法の内容が判明していなかったため、改正された憲法では韓国のことを「第一の敵国」ないし「徹底的な敵国」といった表現で定義している可能性も考えられた。

 実際にはそこまでの強い表現は登場せず、韓国に関しては領土・領海・領空を規定した第2条に次のように言及されているだけだ。「朝鮮民主主義人民共和国の領域は、北側に中華人民共和国とロシア連邦、南側に大韓民国と接している領土と、それに基づいて設定された領海と領空を含む」。憲法のつくりとしては至極常識的なのだが、最高指導者がすでに公にしている提案が条文に反映されなかったのはなぜなのか。研究者としては最も興味を引かれる点である。今期から最高人民会議常任委員長に就いた趙甬元(チョ・ヨンウォン)氏のような側近幹部が助言をし、金正恩委員長がそれを受け入れたのかもしれないが、そうだとしても真相が表に出てくることはないだろう。

 北朝鮮がどこまでを自国領と認識しているのかは、もちろん隣国であるわが国にとっても無関係でいられない問題だ。これまで北朝鮮は韓国と同様に、日本海に浮かぶ竹島を自国の領土だと主張してきたわけであるが、朝鮮名で「独島(ドクト)」と呼ばれるこの島が、今回の国境設定によって北朝鮮領から外された可能性があるのだ。現段階で確認できる北朝鮮の地図に「独島」は載っていないし、北朝鮮メディアは「独島」を語らなくなってしまった。もしそれが真実であるならば、北朝鮮が日本との間に横たわる懸案を一方的に減らしたことになるわけで、もっと注目されてよいポイントではなかろうか。

「後継」を見据えた制度的整理が進んでいるのか

 最後に、最高指導者である金正恩氏の権限について考察したい。国家元首に相当し、3月の最高人民会議で金正恩氏の再任が決まった国務委員長ポストに関しては、従来の「最高領導者」から、「国家首班」(第86条)へと表現が変更されている。北朝鮮らしさが後退し、より一般的な表現に改められた印象だ。一方で、その権限は大幅に拡大された。「核武力に対する指揮権」(第89条2項)は言うまでもなく、最高人民会議や最高人民会議常任委員会が採択した法令、政令、決定、指示に対する国務委員長の「拒否権」(第90条4項)が新たに規定されたのである。そもそも北朝鮮の最高指導者は憲法を超越した存在であって、そのこと自体は驚くに値しないかもしれないが。

 このように考えてきて、ふと根本的な疑問が頭に浮かぶのである。憲法を超越した権限を持つ最高指導者をトップに仰ぎながらも、なぜ北朝鮮はわざわざ憲法改正という煩雑な作業を重ねているのだろうか、という疑問である。憲法改正などの「ルール作り」が特に目立つようになったのは、金正恩氏が父の後継者として公の舞台に出てきた頃からのことだ。その後においても、曲がりなりにも会議を開催して討議するなど「プロセス重視」の政権の姿勢はほぼ一貫している。

 ルールやプロセスという「型」を重視するようになった背景には、金正日(キム・ジョンイル)氏から金正恩氏へ権力継承をスムーズに行うための環境整備という意味合いがあった。そのことに鑑みれば、北朝鮮メディアが「尊敬するお子さま」と呼ぶ金正恩氏の娘が頻繁に表舞台に登場するようになった昨今の状況を、憲法改正をはじめとする一連の法整備の動きとの関連において考えてみたくなるのである。新しい憲法では、1970年代から誇示してきた「税金がなくなったわが国」や「全般的無償治療制」といった修辞も完全に姿を消した。現状に合わなくなった古い理念を憲法から取り除くことで、自らの統治負担を軽くし、ひいては将来の後継体制に備えた制度的整理を進めているのだろうか。

 従来の憲法(全172条)の序文では、金日成主席の業績が述べられた後に金正日国防委員長の業績が羅列され、さらに両者に共通する業績が長文で列挙されたが、新憲法ではそれらが完全に削除されていた。支配政党である朝鮮労働党の規約は、すでに2021年1月の改正で先代指導者の業績についての言及を削除し、「偉大な金日成・金正日主義」という金正恩政権のイデオロギーだけを掲げた。憲法はここにきてようやく党規約に追いついたことになる。

【筆者紹介】礒﨑 敦仁(いそざき・あつひと)慶應義塾大学教授(北朝鮮政治)1975年生まれ。慶應義塾大学商学部中退。韓国・ソウル大学大学院博士課程に留学。在中国日本国大使館専門調査員、外務省第三国際情報官室専門分析員、警察大学校専門講師、米国・ウッドロー・ウィルソンセンター客員研究員、オーストラリア国立大学客員研究員を歴任。著書に北朝鮮を読み解く』(時事通信出版局)、『北朝鮮と観光』(‎‎毎日新聞出版)、『最新版北朝鮮入門』(東洋経済新報社)など。

(2026年6月11日掲載)

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