“生涯消えない記憶”の秘密を握るふたつの分子:研究結果
トッド・サクターが3歳になる直前に、4歳の姉が白血病で亡くなった。「わたしのベッドの横にある空っぽのベッド。ひとり掛けではなくふたり掛けのブランコ……」。自宅に残る姉の痕跡をサクターはそう回想した。「姿を消した、決して話題に上らない人。その人にまつわる記憶はひとつだけでした」。かすかだが消えることのないその思い出は、自宅の階段下の小部屋で起きた。小さかったサクターが本を読んでと姉にせがむと「お母さんに頼んで」と突っぱねられた。しかたなく不機嫌に階段を上って、台所へ行ったという記憶だ。
60年以上経ったいまでも、この子ども時代の何気ない瞬間をサクターが覚えていること自体、驚異的と言える。記憶の驚くべき点は、ニューロン(神経細胞)の分子機構によって、すべての記憶が物理的な痕跡として脳組織に刻み込まれていることだ。生きたその時々のエッセンスを、いかにしてエンコードし、後で取り出すのか。その方法はいまだに解明されていない神経科学の重要な謎のひとつだ。
サクターは答えを探し求めて神経科学者になった。ブルックリンにあるニューヨーク州立大学(SUNY)ダウンステイトで、記憶を支えるニューロン結合の維持にどんな分子がかかわっているかについて研究している。
なぜ記憶は残り続けるのか
サクターの心をとらえて放さないのは、名高い生物学者、フランシス・クリックが1984年に最初に提唱した疑問だ。体内の分子は数日か数週間、最大でも数カ月で分解されて入れ替わるのに、なぜ記憶は何年も、時には何十年も維持できるのだろうか?
サクターは、長年の共同研究者でニューヨーク大学の神経科学者であるアンドレ・フェントンを含むチームと研究を行ない、2024年に『Science Advances』に掲載された論文でこれに答える有望な説を提示した。研究者らは、2種類のタンパク質の持続的な結合が、ニューロンどうしの接合部であるシナプスの強化に関係していることを発見した。シナプス強化は記憶の形成に不可欠だと考えられている。この2種類のタンパク質が分解されても新たなタンパク質が入れ替わりで結合分子に入るので、結合の完全性は維持され、従って記憶も保持されるのだ。
この研究には関与していないキングズ・カレッジ・ロンドンの神経生物学者、カール・ペーター・ギーゼは「記憶の貯蔵には、この2種類の分子間の相互作用が必要」という「非常に説得力のある主張」を提示する研究だと評価している。この発見は、クリックの難問に対する有力な解答を示している。持続期間の矛盾を解消して、生涯続く記憶をはかない分子で保持できる仕組みを説明しているのだ。
長期記憶の鍵を握る分子の発見
サクターが探している分子は脳のシナプスにあるはずだった。1949年に心理学者のドナルド・ヘブが、ニューロンは繰り返し活性化すると結合が強化されると提唱した。のちに神経生物学者のカーラ・シャッツは、この仕組みを「一緒に発火する細胞は一緒に配線される」と表現した。それから数十年にわたって、多くの研究により、記憶を保持するニューロンの結合が強化されるほど記憶の持続性も高まることが明らかになっている。
90年代初頭、サクターは研究室でマウスの海馬をスライスしてシャーレに入れ、刺激を与えていた。海馬は脳の小さな部位で、出来事や場所の記憶を関連づける──サクターと姉との小部屋での出来事のように。そこを刺激して神経回路を活性化させ、記憶のエンコードと格納のプロセスを再現した。次に何か分子的な変化が起きていないか調べた。すると、実験を繰り返すたびにシナプス内の特定のタンパク質の値が上昇することがわかった。「4回目にはこれに違いないと思いました」とサクターは話す。