特攻隊員を見送った元女学生「特攻は無謀な作戦で、美談などではない」…知覧の慰霊祭に参列
太平洋戦争末期、航空機で米軍の艦船に体当たりする「特別攻撃」の出撃拠点となった鹿児島県南九州市知覧町で3日、戦没隊員を追悼する慰霊祭が営まれた。戦後80年となる今年、八重桜の小枝を握りしめ、隊員らを見送った元女子学生の出席者はわずか1人となった。女性は「戦争は私たちの世代だけで終わりにしなければならない」と誓った。(川畑仁志)
拠点の知覧で
慰霊祭に参列し、献花に向かう三宅トミさん(3日午後)(鹿児島県南九州市で)=加藤学撮影「式に来られなかった同級生の分もしっかり手を合わせ、特攻に向かった隊員さんに祈りをささげる」。北九州市の三宅トミさん(95)は、80年前の記憶をたぐり寄せながら、献花のため祭壇に向かった。
慰霊祭は日本陸軍の知覧飛行場跡地にある特攻平和観音堂で営まれた。隊員80人の遺族220人を含む700人が参列し、戦没した1036人を悼んだ。
【地図】特攻のルート式典は1955年に始まり、特攻隊員らが滞在した宿舎の掃除や洗濯を手伝った地元の知覧高等女学校の元生徒も出席してきた。三宅さんもその一人だ。
戦後、元生徒らは同女学校の校章にちなんで「なでしこ隊」と呼ばれるようになった。しかし、高齢化が進んで出席を見送る人が増え、昨年は2人に。今年は同級生の1人が入院し、三宅さんだけが参列した。
「近くの小川で出撃を待つ隊員さんのハンカチや靴下を洗ったり、時間があるときには田んぼのそばで冗談を言い合ったりした」。三宅さんは当時を振り返る。
ただ、隊員たちは数日中に出撃していなくなってしまう。だから「顔と名前を覚えることができなかったの」と切なそうに語る。
三宅さんは「特攻は無謀な作戦で、美談などではない。戦争を知る世代が少なくなり、また、あの時代がやってくるのではと気がかりだ」と強い口調で訴えた。
母の分も語り続ける
桑代チノさん=照明さん提供今年の慰霊祭には、毎年出席を続けてきた元なでしこ隊員・桑代チノさん(96)(鹿児島県南九州市在住)の姿はなかった。その思いを継ぎ、語り部となった長男は「若い命が失われた特攻の記憶を伝えつづける」と誓いを新たにした。
「私は時間になったら病室で手を合わせる。お前も会場で一緒に手を合わせておくれ。長く生きた以上、祈りをささげるのは使命だから」
「知覧特攻平和会館」で特攻について説明する桑代照明さん(2日午後、鹿児島県南九州市で)3日午前、チノさんは入院先の病院から長男の照明さん(68)に電話でこう伝えた。午後1時、式典が始まると、照明さんはそっと目を閉じ、母の分まで隊員たちの 冥福(めいふく) を祈った。
照明さんは、警視庁に勤務していた40歳代の頃、チノさんから、なでしこ隊員だったことを聞かされた。定年退職後、地元に帰り、知覧特攻平和会館で語り部を務めないかと誘いを受けた。チノさんに相談したところ「やってみなさい。私に残された時間も長くはない。思い出したことは全部話してあげる」と背中を押された。
<特攻の見送り>
チノさんは1945年4月中旬、兵舎の掃除中にそう叫ぶ伝令の声を聞いた。バケツやぞうきんを置き、げたを抱えてはだしで飛行場脇に走った。
地上を移動する特攻機のそばで整列し、持ち寄った八重桜の枝を振って見送った。機体は目の前を通過し、操縦士の顔もはっきりと見えた。
チノさんは「何時間もしないうちに突っ込んでしまうんだ、と思うと悲しくて、まともに見られなかった」とそのときの心境を打ち明けた。
照明さんは「戦争の悲惨さを知る母たちの世代がいたからこそ、戦後の日本は平和の道を歩いた。その後を継ぐ我々や、その後の世代が、戦争をしない世の中をどのように作っていくか。今後、それが問われていく」と力を込めた。