2人に1人は卒業できず"討ち死に"…つけ麺店修行「風呂なしトイレ共同・月給3万」「丼が飛んでくる」日常茶飯事 仕事後は優しくなって「飲みに行くぞ」と酒をおごってくれた

多くのバリエーションがある「つけ麺」だが、そもそもこれを発明したのは1961年に東池袋「大勝軒」を創業し“ラーメンの神様”と言われた故山岸一雄氏だ。弟子入り志願者が殺到し、のれん分けされた店も多い中、「お茶の水、大勝軒」代表の田内川真介さんは「オリジナルにもっとも近いのはうち」と胸を張る。「町中華探検隊」初代隊長であるフリーライターの北尾トロさんがその修業時代はどんなものだったのかを聞いた――。(後編/全2回)

※本稿は、北尾トロ『ラーメンの神様が泣き虫だった僕に教えてくれたなによりも大切なこと』(文藝春秋)の一部を再編集したものです。

撮影=堀隆弘

「お茶の水、大勝軒」の看板メニュー「特製もりそば」

自主トレと根性で釜場を死守

【北尾トロ(以下、北尾)】その後、山岸さんは現場に復帰されたんですか。

【田内川真介(「お茶の水、大勝軒」代表、以下、真介)】はい。しばらく休養して復帰したんですけど、足の具合が相当に悪くて、厨房にいる時間は極端に減ってスープのチェックをするくらい。外の椅子に座ってお客さんの相手をする時間が長くなっちゃった。

【北尾】それが絵になるので、象徴的な存在としてますます人気が高まるという好循環が生まれていた。そうなると、厨房を仕切るのは相変わらず柴木さんということですね。

【真介】釡場という麺を上げるポジションがあって、そこが店の司令塔にあたるんです。茹でた麺をざるで上げたり、器にスープを入れる最重要ポジションで、マスターがいるときはそこに陣取っています。

【北尾】初入店した小学生のとき、カウンターに座ったら目の前に山岸さんがいた、あの場所だ。

【真介】そこにはマスターのほかは柴木さんなど数人のベテランしか立てない。昭和二十年代かと思うような古い釡を使っていて、平ざるという丸いざるで麺を上げるんですが、その扱いが難しいんですよ。なかなか麺がまとまらない。

撮影=堀隆弘

田内川さん

【北尾】私も町中華の店主に「やってみな」と言われて平ざるを触ったことがあるので、手際よく麺をまとめるには経験が必要なのはよくわかります。その技術はどこで練習したんですか。

【真介】自宅でやるしかないですよね。麺上げができなければ修業を終えられないのがわかっていたので、平ざるを自分で買って、余った麺をもらってきて自宅の風呂場で練習してました。あとは仕事の空き時間に首にかけているタオルをボウルの中に入れて上げるとか、江戸川橋にいたときから腱鞘炎になりそうなくらいやりました。

【北尾】いつだったか、びっしり小さな文字で作業のポイントをメモしてある染みだらけの小さなノートを見せてくれましたね。あれも江戸川橋から始めたんですか。

【真介】はい。材料とか調理時間とか、わからないことを質問して、そのたびに現場で書き記してました。厨房で書くからすぐスープや醤油の染みだらけになっちゃう。やることがいっぱいありすぎて、そうでもしないと覚えられない。


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【北尾】かなり忙しかったみたいですが、研修生の一日のスケジュールを教えてください。

【真介】二パターンあって、早番は四時に出勤して十六時まで。遅番は六時に出勤して十七時まで。

【北尾】その二つは何が違うのですか。

【真介】早番はチャーシューを作るんです。それからスープなどの仕込みをして八時にまかないを食べます。研修生が多いので、その中でできる人が他の研修生に教えながらやっていました。

【北尾】仕込みで技術を習得していかないと、十一時に開店したら午後三時の閉店までは忙しくて試行錯誤している余裕なんてないんでしょうね。店の前にずっと行列ができているんですから。

【真介】はい。週末になると朝七時から並んでいる人もいましたよ。酒を飲みながら待っている客もいて、開店時にはベロベロになってる。

営業が終わると、片づけをして、まかないを食べて終わりになります。僕は釡揚げ以外だと製麺をよくやらされましたが、肉体労働だからすごく疲れるんです。家に帰って入浴したら、あとはもう寝るだけ。江戸川橋店にいた時にはみや子とふたりだけで店をやっていくのもいいと思っていましたけど、毎日へとへとになって身体がもたないので、その考えを捨てましたね。

【北尾】繁盛店になればなるほど寿命が縮みそう。

【真介】こんなに人数がいても朝から働きづめなのに、ひとりでやったら継続できない。やるなら分業制にして、スタッフを何人か入れようと決めました。

【北尾】まかないは何を作るんですか。

【真介】予算二千円と決まっていて、納豆とサラダ、味噌汁は絶対につけなきゃいけないルール。いろいろ作りましたよ。ハムエッグ、焼き鮭とか。二週間ごとの当番制でやってました。

【北尾】ところで、山岸さんから直接指導を受ける機会はあったんですか。

北尾トロ『ラーメンの神様が泣き虫だった僕に教えてくれたなによりも大切なこと』(文藝春秋)

【真介】マスターはスープの出来を見るくらいだから、修業期間の前半はほとんど接触がなくて、ひたすら柴木さんのしごきに耐えてました。うっかりポカをすると丼まで飛んできましたからね。令和の時代にはあり得ない昔ながらのスパルタでした。

【北尾】鬼軍曹だ。

【真介】口が悪くて、指導も厳しすぎるから途中で逃げ出す研修生も多かった。それなのに、仕事が終わると優しくなって「田内川、飲みに行くぞ」と酒をおごってくれたりもするから、こっちはわけがわからないですよ。でも、当時はわからなかったけど柴木さんも大変だったと思います。マスターが倒れていた間、店を支えていたんですから。


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【北尾】立ったままで殴り書きされた読みづらい文字から懸命な気持ちが伝わってきました。

【真介】帰宅後にそれを清書するんです。自分の字が読めなくて苦労しました。卒業するまでやっていたから何冊にもなりましたが、初心を忘れないためにいまでも大切に持っています。僕の宝物です。

【北尾】真介さんは虎視眈々たんたんと影で練習していたからうまくクリアできたけど、一発勝負で失敗して厨房からお呼びがかからなくなった研修生もいたんでしょうね。

【真介】かなりいたはずですよ。「明日はお前にやらせるから」って予告されるなら準備もできるけど、急にくるから。僕のときも入って二週間で突然、「田内川、やってみろ」でした。ぶっつけ本番で客に提供する麺をつくることができるかできないかの勝負、一度きりのチャンスだと思ったから気合いが入ったなあ。

【北尾】それをモノにしたんですね。

【真介】でも、ほんとうに大事なのはそこから。今度は他の研修生たちにその場を奪われないよう死守しなければならない。少なくとも僕は「絶対に明け渡さない」つもりでした。先に入った研修生からは、「なんで真介ばかり釡場に立つんだよ」とやっかまれますよ。

でも、そんなことはどうでもいいんです。釡揚げはやればやるほどうまくなるんだから。「悔しかったら奪ってみろ。ここに立ってなきゃ一人前になれねぇんだよ」と開き直ってました。

撮影=堀隆弘

厨房内で

【北尾】ほかにも、弱肉強食の世界を勝ち抜くためにしたことはありましたか。

【真介】江戸川橋の先輩たちから、「材料一つにしても、なんでこれを入れるのか、すべてのことに疑問を持ちなさい」と言われたのがためになりましたね。どうしてここに生姜を入れるのか、ネギを入れるのか、すべて理由があるんだと。そこを考えろとアドバイスしてくれたおかげで、どうしてなのかを知ろうとする貪欲さが芽生えました。

【北尾】目標が定まったときの真介さんは、持てる力を最大限に発揮しますよね。このときも短期間で先輩たちをごぼう抜きして、研修生のトップグループに入った。

【真介】たぶん僕は、腹を決めてちゃんとやっているときは結果を出すんでしょうね。どうしようかと迷っているときは、いつもだめなんだと最近わかった。

【北尾】最近までわからなかったんだ。

【真介】迷ったら自重すべし。自分のことだからこそ、なかなか気づけなかったですね。


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【北尾】ライバル関係にある研修生とはどういう距離感でやっていたのかな。

【真介】柴木さんが悪役になってくれたおかげで結束が固まった。よく一緒にいたのは、店の近くの寮に住んでいた研修生ですね。研修生は二万円で、店が借り上げていた風呂なしトイレ共同の昔ながらのアパートの部屋に入れたんですよ。だけど給料は安い。研修生は三万円から始まって徐々に上がってはいくんですけど、とにかく金欠。自宅から通っていた僕なんてマシなほうで、寮にいる研修生たちは……。

写真提供=お茶の水、大勝軒

4/1〜4/15まで「お茶の水、大勝軒」で“ラーメンの神様”山岸一雄氏のかつてのレシピそのままの「復刻版もりそば」を期間限定で販売中

【北尾】食事して銭湯に行ったらもう終わりだ。

【真介】僕は最終的に八万五千円まで上がったんですけど、そんな額でも気分は高給取りでしたからね。

【北尾】それじゃあ、開業資金を貯めるどころではない。

【真介】はい。毎日、あまりにも過酷なので、数人の研修生と気分転換に隅田川花火大会を見に行ったことがあるんです。最初はみんなで盛り上がってたんですけど、帰る車内では全員無言になっちゃった。明日はまた早起きして、柴木さんに怒鳴られるかと思うともう憂鬱で喋る元気も出ない。

【北尾】修業期間は決められているんですか。

【真介】期間は決まってないです。スープの仕込みや麺上げなどをマスターに見てもらい、合格すれば卒業となり、のれん分けもしてもらえます。マスターは弟子を信用する人なので、なるたけ卒業させてくれていたんだと思います。弟子志願者が列を成しているので、ある程度できるようになったら次を迎え入れる方針だったんでしょうね。年齢は二十代から五十代まで、まったくの素人もいればラーメン屋をやっていた人もいました。

【北尾】のれんは比較的短期間で手に入るけど、よほどしっかりしていないと独立後に苦労するのが目に見えている。

【真介】研修生のうち卒業できるのが半分程度。独立して成功する人となると、そんなに多くはなかったと思います。独立した先輩たちが“討ち死に”するのを見て、僕は一通りできるだけでは足りないと感じていました。スープ一つとっても、研修中なら味のチェックを受けられるけど、独立したらすべてを自分で判断しなくてはならない。そこまでの自信はなかなか持てませんでしたね。

地道な努力を続けていたある日、真介に転機が突然訪れる。何気なく拾った一枚の紙切れが、その後の修業内容を変えてしまうのだ。

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