(社説)先行きの見えぬ世界 わからない状態に耐える力
「こころの健康」を特集した2024年の厚生労働白書によれば、うつ病、適応障害、認知症、統合失調症など精神疾患の外来患者は20年時点で計586万人に上る。10年前から倍増した。多くの人が日常的に不安やストレスを抱える一方、心の不調が病気として認識され、相談・診察へのハードルが下がったことも要因として考えられる。
■だれもがなりうる
誕生から45歳になるまで約1千人の心の健康状態を追跡したニュージーランド・ダニーデンでの興味深い調査がある。2020年に米医学誌に発表された論文によれば、86%の人が45歳までに一時的にせよ何らかの精神疾患の状態にあると診断された。さらにその多くが複数の疾患の診断を受けていた。
これは、心に一定の負荷がかかれば、だれもが病気になりうることを示している。一方、精神疾患の原因や仕組みはまだほとんどわかっておらず、発展途上にあるのも事実だ。本人が訴える症状から診断するため、医師によって異なることも珍しくない。診断には「ぶれ」や「ゆらぎ」がつきまとう。
■模索や葛藤を続ける
『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』という本が2017年の出版以来、異例のロングセラーになっている。著者は、精神科医として40年以上患者の診察に当たってきた、作家の帚木蓬生(ははきぎほうせい)さんである。
ネガティブ・ケイパビリティとは、もともと19世紀にジョン・キーツという英国の詩人が、創造的な芸術家に求められる資質として唱えた概念だ。オックスフォード英語辞典には「わからない状態や不確かさを受け入れる能力」とある。20世紀になって、既存の知識や理論の枠に患者を性急に当てはめることを戒める精神科医が持つべき心得として提唱された。
帚木さん自身、医師になって6年目、精神医学の限界に気付き始めたころに読んだ論文で、この言葉を知り、救われたという。
本には8人の患者が登場する。うつ病で休職する夫と不登校が続く息子を抱え、不眠と動悸(どうき)を訴えて受診した女性のケースなど、目の前で抱える問題をただちには解決できない。話を聞くだけの宙ぶらりんの状態が続く。それでも何とか持ちこたえていけば、やがて信頼や共感が生まれ、事態が好転することがある。
答えがみつからない現実は身近にも存在する。
希望を失った終末期の人が生きる意味とは何か。ひきこもりの人はなぜひきこもるのか――この本は、まず医療や介護、教育の分野で支持が広がり、最近は経営者やリーダーが持つべき心得としてビジネス分野でも注目される。
むろん問題の本質を見抜き、解決策を見いだそうとする試み自体は大事なことだ。テストや試験なら、限られた時間のなかで、正しい答えを出すことが求められる。
しかしながら、現代はとかく効率性が重視され、ネットやスマホを検索すれば、すぐにわかったつもりになれる便利な時代だからこそ、逆に「わからないままでいること」への共感があると帚木さんはみる。
わからない不安定な状態に置かれるのは、決して心地のいいものではない。そこで耐えるのはしんどくもある。
けれども帚木さんは「内面で模索や葛藤を続けることにネガティブ・ケイパビリティの本質はある」と言う。それは、あきらめや思考停止、問題から目を背けることではなく、むしろ熟慮のプロセスに通じるものがあるのではないか。
■不明瞭な時代にこそ
不確かな情報がSNSやネットでシェアされ、意図を持った偽情報も紛れて拡散する。わずかな報酬を目当てに闇バイトに手を染める若者も後を絶たない。
上智大学の佐藤卓己教授は著書『あいまいさに耐える』のなかで、真偽の定かでない情報に接したときに、すぐに反応せずやり過ごす忍耐力のことを「ネガティブ・リテラシー」と呼んでいる。土台にあるのはネガティブ・ケイパビリティの発想だ。
世界に目を向ければ、先行きの見えない問題が、あちこちによこたわる。
いったん始まった戦争はなぜ止められないのか。なぜ対立や分断は深まり、格差は広がる一方なのか。自国第一を掲げ、協調や対話に背を向ける指導者にどう対峙(たいじ)すればよいのか。
いずれも処方箋(せん)を見いだすのは容易ではない。しかしながら、性急に答えを求めるあまり、わかったつもりになって、本質を見失うという「落とし穴」があることもまた忘れてはいけない。
当欄もまた例外ではない。
新聞の社説は、時に拙速を承知で、問題の所在を明らかにし、わかりやすく解決策を示すことを是とする。他方、結論を急げば、ただうわべをなでたり、現実を踏まえぬ理想を並べたに過ぎなかったりする恐れもある。何が最善なのか。自問自答を繰り返す。
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