大阪桐蔭でも履正社でもなく…なぜ山口の私立高を選んだ? 20校以上が勧誘した“スーパー中学生”の争奪戦「無理かなと思った」高川学園関係者が明かすウラ側
「当時、庵治ヤングにいい左の3年生がいて、左のエースが彼、右は木下、という感じで起用されていました。とにかく投げっぷりがよかった。最初に見て、この子も3年生なのかなと思ったほどでした」 高川学園の監督、松本祐一郎が、視察から帰郷した西岡の様子を思い起こす。 「『こんなピッチャーがいたんです! 』と報告をくれたときの目が輝いていましたね。相当惚れ込んでいるんだろうなと思いましたよ」 そこからは可能な限り木下へアプローチした。練習を視察しようと香川を訪れ、大会だけでなく練習試合にも足を運んだ。だが、木下の評判は広がっていた。
兵庫であった練習試合に駆け付けると、バックネット裏に甲子園優勝監督がズラリと並び、木下の一挙手一投足に熱視線を送る様に出くわした。さすがに、この光景には「無理かなと思った」と壁の高さを痛感したという。 時間は有限である。木下を諦めて、獲得が見込める選手の視察に切り替える方が得策ではないか。撤退が頭をよぎってもおかしくない状況で、ある“推測”が、西岡を踏みとどまらせた。木下の中学野球の選択だ。 「木下は小学生時代、タイガースジュニアに所属していました。その実績があれば、中学のチームも選択肢はたくさんあったと思うんです。そのなかから、チームの立ち上げから間もない庵治ヤングを選んだ。ということは、歴史を作っていきたいタイプなんじゃないかなと」 さらに、木下の左手にはめられたグラブが、この仮説に強度を与えた。 「今使っているものとは違って、あまり有名ではないメーカーのグラブを使っていました。野球をしていても知らない人も多いであろうグラブです。それがもし、大手メーカーでそろえていたら、諦めていたと思います。王道が好きな子なんやろうなって。でも、新しいチームで、グラブはマイナーなメーカー。ブランドや看板に固執していない印象を受けて、訴えかけるならここしかないと思いました」 西岡の推測は、木下の「人と同じなのは嫌なタイプ」という素養と概ね合致していた。 木下は小学生時代に、ヤクルトでプレーした岡本秀寛のピッチングスクールに通っていた。甲子園経験がなくともプロに進んだ岡本と接することで、「高校野球は通過点。自分もプロに行きたい」という気持ちが芽生えた。 高松庵治ヤングストーンズは、そのスクールを発展させる形で生まれ、現在も岡本が監督を務めている。大手でなくても、気に入ったグラブを愛用する。チームの知名度や歴史よりも、信頼できる師を選ぶ。甲子園にとらわれず、自分を高められる環境を欲する……。たしかに、そこにブランド志向は微塵もない。 垣間見えたフロンティア・スピリッツ。西岡の見出した風穴であり、木下を欲した最大の理由でもあった。
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木下は、高川学園のことを「あまり知らなかった」ので、西岡ら指導者陣についての知識も当然ない。だが、この日も自分の投球を見つめる「高川学園の人」の熱意を感じ取ってはいた。木下の回想だ。 「大会だけじゃなくて、練習試合にも来てくださっていたのは気づいてました。スピードガンで計ったり、フォームのことだったり、すごく細かいところまで見てくださっていて。熱い人だなと思っていました」 西岡は試合を視察するたびに、木下を指導する岡本と対話を重ねた。能力を称賛するだけでなく、気づいた点も臆せずに伝えた。2人は同じく左投手。左腕の視点から、右投手である木下をどう導いていくかの会話を重ねた。その時間で、互いに共通する野球観を感じ取ったのだろうし、何より「もっと成長してほしい」という西岡の熱意が岡本にも伝わったのだろう。 潮目は変わりつつあった。 〈つづく〉
(「甲子園の風」井上幸太 = 文)