戦艦大和の乗組員だった父に「やっと来られた」…最後の洋上慰霊に写真忍ばせ初参加

 第2次世界大戦の戦没地に近い海域を巡り、船上から犠牲者を追悼する日本遺族会主催の「洋上慰霊」は、遺族の高齢化などのため戦後80年を機に今年度で終了した。父親が戦艦大和の乗組員だった大阪市北区の吉村孝史さん(83)は今年初めて参加し、6月3日、東シナ海の大和の沈没地点で開かれた慰霊祭で遺族を代表し、追悼の辞を述べて平和を誓った。(福永正樹)

父の墓前で手を合わせる吉村さん(奈良県御所市で)

 「遺族の悲しみは、いつまでも尽きることはない。次の世代に伝え、豊かで平和な国家を築いていきたい」

 追悼の汽笛が鳴らされると、父・一雄さんが好きだったという高野豆腐や餅などを海に投げ入れ、犠牲者へ鎮魂の祈りをささげて平和の誓いを新たにした。

吉村さんと母・夏子さん(吉村さん提供)

 一雄さんは、奈良県御所市の農家に生まれ、6人きょうだいの末っ子。1941年3月、大和への乗船が決まると、帰省して母・夏子さんとお見合い結婚。その後、孝史さんが生まれた。

 一雄さんは、41年12月の就役当時から大和乗組員だった。45年3月、母港の広島県呉市に大和が帰港した際、一雄さんから夏子さんに「会いたい」と手紙が届いた。ただ、美容師だった夏子さんは当時、花嫁の化粧直しの仕事が入っていた。半年前からの予約で、夏子さんは仕事を優先した。そして翌月、大和は沖縄へ特攻に向かう途中に東シナ海で米軍の攻撃に遭い、沈没した。30歳だった。

 「なんぼ悔いても悔やみきれない」。夏子さんは、この時の判断を99歳で亡くなるまで生涯、嘆いた。夏子さんは一雄さんと数回しか会えていないが、戦後も再婚せず、「戦艦大和会」が毎年4月7日の「命日」に呉市で開く慰霊行事に参列するなど、一雄さんの慰霊に人生をささげたという。

戦艦大和の乗組員だった父・一雄さんと幼いころの吉村さん(吉村さん提供)

 昨年6月、孝史さんが夏子さんの遺品を整理していた際、アルバムに、呉の写真館で2歳の自分と一雄さんが写った写真を見つけた。父の記憶は一切なく、身近に感じる機会はなかったが、その時、存在をまざまざと感じ「父がいたからこそ、私はこの世に生を受けた。本当にありがとう」と感謝した。

 今回の洋上慰霊は、知人から聞いて参列を決めた。喪服のポケットには、手元に残る3枚の写真を忍ばせた。父の存在を感じられる唯一の遺品。父が亡くなった場所で、初めて「お父さん」と大きな声で叫んだ。同じ時間を共有し、一体感を感じられた気がした。

 一度しか会えなかった父だが、誇りに思う。「僕もやっと来られたよ。安らかにお眠りください」。そう心の中でつぶやいた。

 日中戦争から終戦までの日本人の犠牲者は約310万人にのぼる。一雄さんたちきょうだい6人のうち2人が命を落とした。

 ロシアによるウクライナ侵略、ガザ紛争――。今もなお世界各地で紛争は続く。7月21日、孝史さんは奈良県御所市の父の墓標の前で手を合わせた。いつの時代も戦争に正義も悪もない。「過ちは二度と繰り返してはいけない。孫ら戦争を知らない次の世代に語り継いでいきたい」と誓った。

悲惨な記憶を動画でつなぐ 

 戦後80年に合わせ、府や大阪市、堺市は、戦争の記憶を次世代につなぐため、吉村さんら戦没者遺族らが体験や思いを語る動画を作成し、ユーチューブで公開している。父の戦友から聞いた激戦地での悲惨な現実や、家族で満州(現中国東北部)から引き揚げる際の命懸けの体験など、いずれも戦争の悲惨さと平和の尊さを訴えている。府と大阪市、堺市が7月29日に開いた今年の「平和祈念・大阪戦没者追悼式」の会場でも上映された。

 ◆ 戦艦大和  1941年12月に就役した全長263メートルの世界最大級の戦艦。46センチ砲を9門備え、沖縄での特攻作戦に参戦するため、9隻の僚船と出撃したが、45年4月7日、鹿児島県沖の東シナ海で米軍機の攻撃を受けて沈没。乗員3332人のうち3056人が戦死した。

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