元ナチの現役首相・キージンガーに29歳女性がいきなり平手打ち…失脚の原因となった大事件の背景(ダイヤモンド・オンライン)

 1966年、連邦議会で圧倒的多数の支持を受けて首相に選出されたキージンガー。しかし、戦後西ドイツで元ナチ党員が首相となるのは、被害者らにとって到底受け入れがたい事実であった。そんななかキージンガー首相は、1人の若い女性ナチ・ハンターから平手打ちを喰らったことで、失脚の道を歩むこととなる。世界を揺るがしたこの大事件の舞台裏に迫る。※本稿は、ジャーナリストの中川竜児『終章ナチ・ハンター』(朝日新聞出版)の一部を抜粋・編集したものです。 【この記事の画像を見る】 ● ナチスがドイツの首相に なるのは許せない  仕事帰りのオットー・アドルフ・アイヒマン(編集部注/ナチ親衛隊将校として、数百万人におよぶ強制収容所移送の指揮的役割を担った)が、アルゼンチンの自宅近くでイスラエルの諜報機関によって極秘裏に拘束された1960年5月11日、フランスのパリで一組の男女が出会った。  「ずいぶん後になって、自分たちの活動を本にしている時に気づきました。不思議なこともあるものだと」  夫セルジュ、妻ベアテのクラルスフェルト夫妻はパリの事務所で顔を見合わせて笑った。インタビューの途中も2人は時に手を取り合った。長い生活で築いた信頼関係と愛情が分かるほのぼのとしたやり取り。だが、2人の横の壁には、1943〜1944年当時のアウシュヴィッツ強制収容所の大きな俯瞰図が貼ってある。  夫妻は世界に知られたナチ・ハンター(編集部注/ナチ時代の犯罪に関わった者たちの責任追及を続ける活動家)だ。  2人は出会った3年後に結婚。長男には、セルジュの父にちなんでアルノと名付けた。1966年、幸せな生活を送っていた若い2人の歩みを大きく変える出来事が起きた。西ドイツ首相に、クルト・キージンガーが就任した。

 キリスト教民主同盟(CDU)の政治家、キージンガーはヒトラーが政権を取った1933年にナチ党に加わった。その後、積極的には活動していなかったとされるが、第二次世界大戦中の1940年からは外務省放送局に勤務。ナチのプロパガンダ普及に一役買った人物だった。  ベアテはあぜんとしたが、すぐに決意した。  「1人のドイツ人として、抗議するのが義務だと思いました。私はすでに過去に何があったかを知っている人間でした」。 ● 東ドイツ当局がナチ追跡を 積極サポートした事情  かつてセルジュから聞かされた、ゾフィー・ショル(編集部注/ナチ体制下の1943年、ナチへの抵抗を訴えるビラを配布したミュンヘン大学の学生。兄とともに逮捕され処刑された)らの話も背中を押した。  ベアテは当時、西ドイツとフランスの若者の交流を促進するために設置された事務所で働いていた。左派系の新聞に、キージンガーの就任を批判する記事を発表して間もなく、解雇された。記事が問題視されたと考えたベアテは、セルジュと相談し、解雇不当の訴えを裁判所に持ち込むことを決める。セルジュは「家族が不当な目にあっているのに、黙っているのはおかしい。サポートするのが当然だと考えた」と振り返る。  セルジュのサポートは、法廷闘争にとどまらなかった。ベアテの「反キージンガーキャンペーン」も強力に後押しした。東ドイツに行き、キージンガーに関する資料を当局から見せてもらった。東ドイツにとっては、西を攻撃する材料が増えるのは好都合だった。  とはいえ、東に取り込まれたり、利用されたりする恐れはなかったのだろうか。  セルジュは「我々と東ドイツは同じ意見は持っていなかったが、同じ敵は持っていたということです」と説明した。  ベアテはキージンガーの件で、サイモン・ヴィーゼンタール(編集部注/オーストリア生まれのユダヤ人でホロコースト生還者。ユダヤ人迫害に関わった多くのドイツ人を追い続けた、元祖ナチ・ハンター)とも相談したという。「でも、彼にとって、キージンガーは『案件』ではなかったのです」  2人は資料をもとに、さらに批判を強める冊子を自費出版した。

ダイヤモンド・オンライン
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