姫路モノレールはなぜ短命に終わったのか? いまも残る廃線跡を探索
「白鷺城」とも呼ばれる世界遺産・姫路城。その城下町である兵庫県姫路市の空を、かつてモノレールが走っていたのをご存知だろうか。
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姫路博の会場をバックに走行するモノレール(提供 : 姫路市)
姫路市交通局モノレール(以下、姫路モノレール)は、いまから60年前の1966(昭和41)年5月17日、姫路駅前とその南西に位置する手柄山(標高約50m)を結ぶ約1.6kmの路線として開業した。折しも手柄山中央公園(現・手柄山平和公園)では姫路大博覧会が4月3日から6月5日までの会期で開催されており、その来場者輸送で注目された。
しかし、その運行は長くは続かず、開業から約8年後の1974(昭和49)年4月11日に運行休止、1979(昭和54)年1月26日に正式に廃止となる。
なぜ、姫路モノレールはこんなにも短命に終わったのか。本記事では、その誕生から終焉までの経緯をたどるとともに、廃線跡を歩きながら往時の姿を追いかけてみたい。
都市交通の切り札としてのモノレール
姫路モノレールが登場した1960年代、我が国は高度経済成長期のただ中にあった。各地の都市では自動車が急増し、道路は慢性的な渋滞に見舞われていた。路面電車は定時運行が不可能になり、これに代わる新たな都市交通の登場が待望されていた。
地下鉄は有力な選択肢だったが、その建設には莫大な費用がかかる。そこで注目されたのが、都市の街路や河川の上空を有効活用し、地上交通との分離が可能なモノレールだった。
モノレールは、土地の狭い日本に最適な乗り物であると思われた。スリムな支柱を立て、その上に1本の軌道桁(走行面)を架設するだけで建設が可能であることから、用地費が抑えられる上に、都市の美観や採光・通風を確保するという点でもメリットがあるとされた。
そのため、各地でモノレール導入が検討され、その中には姫路市も含まれていた。播磨臨海工業地帯の急激な発展などにより交通渋滞が深刻化し、「市街地などは二キロメートルを車で走るのに二十分以上もかかる」(「広報ひめじ」1963年7月号)という状況から、モノレール構想が浮上したのである。
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空を飛ぶように走る姫路モノレールの車両。姫路博の会期中は3両連結で運転された(提供 : 姫路市)
他の都市では、モノレール構想はなかなか実現しなかったが、姫路市では構想から約3年で開業にこぎつけている。その背景には、当時の姫路市長・石見元秀(いわみ もとひで)の政治的手腕があった。
モノレール構想への激しい反発
石見は、地元・姫路の土建業出身で、「姫路の田中角栄」ともいわれる政治家だった。戦後の混乱期から高度経済成長期にかけて、5期20年以上にわたって姫路市長を務め、姫路駅前と姫路城を結ぶ全長840m、幅員50mの大手前通り(通称「50メートル道路」)の建設、山陽電鉄の高架化、播磨臨海工業地帯の造成、姫路城解体修理(昭和の大修理)など、重要なインフラ整備を推し進めた。
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手柄山に立つ「姫路の田中角栄」こと石見元秀の銅像(筆者撮影)
モノレール構想は、こうした石見の政策の延長線上にあった。「モノレール建設は石見市長構想で都市交通の新しいアイデアとして発表された」(神戸新聞1962年12月9日付)のである。
だが、構想が発表されると、猛烈な反対運動が繰り広げられる。1963(昭和38)年4月の市議選後、「革新系議員、市内の労働組合を中心に大きな反対運動が起こり『モノレール建設より、教育、住宅建設などの市民福祉施策を優先せよ』と根強い、精力的な運動」(神戸新聞1965年4月22日付)が続けられたのだ。それでも石見は、「政治生命をかけても建設する」(『愛郷のひと 石見元秀』播磨時報社編)との強い決意で、モノレール計画を推進した。
1963(昭和38)年7月には、「日本ロッキードモノレール製を採用」(神戸新聞1963年8月7日付)することが決まった。モノレールは軌道をまたいで走行する跨座(こざ)型と、ぶら下がって走行する懸垂型の2種類に大きく分類される。当時、跨座型で有力視されていたのは日立製作所が西ドイツから技術輸入したアルヴェーグ式(東京モノレールなどで採用)だった。この方式はコンクリートの軌道桁上を直径の大きなゴムタイヤで走行する点に特徴がある。
一方、姫路市が採用したロッキード式は、米国の航空機メーカー・ロッキード社が設計し、日本ロッキードモノレール社(川崎航空機=現・川崎重工などが出資)が製造するもの。アルヴェーグ式と同じ跨座型だが、通常の鉄道と同様に鉄車輪を用いる点が大きな違いである。
戦後に開発された近代モノレールは都市への導入を想定していたことから、その大半は騒音の小さなゴムタイヤが採用されている。その観点で見ると、鉄車輪のロッキード式は、防振ゴムが挟み込まれた弾性車輪を用いているとはいえ、亜流と位置づけられる存在である。
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ロッキード式モノレールはコンクリート製の軌道桁上に鉄レールが敷かれ、その上を鉄車輪の車両が走行するのが特徴。コンクリートとレールの間にはゴムなどの緩衝材が入れられた(写真 : 姫路市)
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ロッキード式モノレール断面図(日本モノレール協会誌より転載)
なぜ、姫路市ではロッキード式が採用されたのだろうか。資料を見ると、「機種選定委員会を設け、科学的調査現地調査など」(「広報ひめじ」1963年7月号)を行った結果だという。理由は明記されていないが、おそらく次の理由によるものと思われる。
姫路モノレールは第1期線こそ姫路駅~手柄山中央公園間の短い路線だったが、将来的には「北部住宅地及び文教地と姫路駅を結び、更に国鉄山陽本線を越え手柄山中央公園を経て南部海岸工業地帯をめぐるモノレール路線」(起業理由書)を設置するという壮大な路線構想を持っていた。つまり、通勤・通学需要を吸収する大量・遠距離輸送を想定していたのだ。
その観点で見ると、アルヴェーグ式は直径の大きなゴムタイヤを用いる構造上、客室内に突出部ができるため、大量輸送には不利と考えられた。また、当時は東京モノレールや札幌市営地下鉄が開業前であり、ゴムタイヤ式の鉄道は十分な運用実績がなく、耐荷重性の面でも不安視された可能性がある。
これらを踏まえれば、長距離・高速走行に適し、輸送量や耐荷重性にも優れるとされた鉄車輪式のロッキード式を採用したのは、当時としては合理的な選択であったと評価できる。
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ロッキード式モノレール試作車(向ヶ丘遊園)および量産車(姫路市)の諸元表(日本モノレール協会誌より転載)
だが、結果として国内でロッキード式が導入されたのは姫路モノレールと小田急電鉄向ヶ丘遊園モノレールの2路線にとどまり、きわめて特殊な機種となってしまう。モノレールは都市交通への導入が大前提であったため、騒音の小さなゴムタイヤ式のメリットが大きかったからだ。このことが、姫路モノレールの短命化を招く一因となる。
用地買収の難航で開業が遅れる
反対運動の影響などから、姫路モノレールの路線免許が下りたのは1964(昭和39)年11月、建設工事の施工が正式認可されたのは1965(昭和40)年9月になった。当初の計画より2年以上遅れたことになる。
第1期線は前述の通り、姫路駅前と手柄山を結ぶ約1.6kmの路線だった。終点を手柄山にしたのは、1966(昭和41)年4月3日に開幕する姫路大博覧会のメイン会場が手柄山であり、その来客輸送のためであった。
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姫路モノレール予定路線図(出典 : 「広報ひめじ」1960年5月号)
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当時の図面。右端の国鉄姫路駅と電鉄姫路(現・山陽姫路)駅に挟まれた地点を起点に西進するモノレールの軌道(細線)が描かれている(姫路市提供図面の部分)
工事は急ピッチで進められたが、モノレールの開業は博覧会の開幕に間に合わず、1カ月半も過ぎた5月17日にずれこんだ。原因は、姫路駅周辺の用地買収の難航だった。
モノレールの姫路駅は、現在のJR姫路駅北口側、山陽姫路駅(当時は電鉄姫路駅)との間に設置されることになった。当時、駅の西側一帯は「駅前の重要な区域であるにもかかわらず、道路は狭く、また小さい木造家屋が密集」(「広報ひめじ」1965年11月号)している状態だった。
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モノレール姫路駅は仮駅だったとされ、簡素な造りであった(提供 : 姫路市)
そこで再開発事業を行い、新たに幅員20mの都市計画街路高尾線(現・駅西線)を建設し、街路の北側に沿ってモノレールの軌道を設置することになった。その用地買収に、予想以上に時間と費用がかかったのである。
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では、実際に現地に足を運び、姫路モノレールの廃線跡を探索してみよう。JR姫路駅北口を出ると山陽百貨店がある。その南側から西進する道路が駅西線だ。この駅西線の1本北側の路地に足を踏み入れると、モノレールの遺構が目に入る。
その光景はシュールで、かなり強い印象を受ける。モノレールの支柱が、まるで建物の屋根上に「チョンマゲ」が生えているように見えるのだ。もちろん、支柱を建てるには基礎工事が必要であるから、正確には地面に立つ支柱を囲むように建物が建てられているのだが。
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建物の屋根に「チョンマゲ」が生えているように見えるモノレールの支柱。その向こうには山陽電鉄の高架が見える(筆者撮影)
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山陽電鉄の線路をオーバークロスするモノレール(提供 : 姫路市)
「チョンマゲ」を見ながら歩いていくと、まもなく山陽電鉄の高架が見えてくる。モノレールは、この高架のさらに上を「14.8mの高さでオーバークロス」(「姫路市営モノレール」藤井信夫著・鉄道ピクトリアル1970年4月号掲載)していた。
高架を越えると、その先に唯一の中間駅である大将軍駅があった。同駅は、姫路市と住宅公団が共同で建設した「高尾アパート」という10階建てのビルの3~4階をモノレール駅として利用し、1~2階を店舗、5~10階を賃貸住宅(全62戸)として活用したものだった。ビルの中空をモノレールが出入りする斬新な建築だったが、老朽化のため、2016~2017年にかけて解体されてしまった。
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大将軍駅。ビルの中空をモノレールが出入りする斬新な建築。残念ながら取り壊されてしまった(提供 : 姫路市)
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大将軍駅跡の現在の様子(筆者撮影)
大将軍駅は住人らの利用を見込んで設置されたものの、姫路駅起点0.5kmと距離が近すぎ、また、モノレールの運賃が高額だったこともあってほとんど利用されなかった。1967(昭和42)年12月の同駅利用者は1日平均7人、乗客ゼロの日が7日間もあったという(神戸新聞1968年1月28日付)。そのため1968(昭和43)年2月からは駅業務を休止し、通過駅となったが、列車通過時の轟音が上層階にまで響き、徐行運転せざるをえなかったという。
大将軍駅を過ぎると、すぐに産業道路(県道62号姫路港線)をまたぎ、軌道は大きく南へカーブする。ここから船場川の流れに沿って進み、途中、国鉄山陽本線(当時は地平を走行)をオーバークロス。この船場川沿いにも、軌道の遺構がいまも残されている。
文化センター前通りに架かる月見橋付近でモノレールは船場川を渡り、60‰(パーミル。1km走るごとに60m上昇)の勾配を上る。最後はレンガ造りの手柄山駅に、吸い込まれるようにホームに到着した。
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船場川沿いのモノレール軌道の遺構。支柱だけでなく桁部分も残っている(筆者撮影)
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軌道桁の断面。かなり狭く、これでは遊歩道やサイクリングロードには転用できない(筆者撮影)
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手柄山駅に進入するモノレール。このレンガ造りの手柄山駅は、現在は「手柄山交流ステーション」として使用され、保存車両を展示するなどしている(提供 : 姫路市)
旧・手柄山駅は現在、「手柄山交流ステーション」という市の施設になっており、2階の展示室には、かつて活躍したモノレールの車両が保存・公開されている。姫路モノレールには、片運転台式の101・102号車と両運転台式の201・202号車、合計2編成4両が在籍したが、保存されているのはこのうちの201・202号車である。
姫路モノレールは、なぜ失敗したのか
姫路モノレールはわずか1.6kmの路線であり、廃線跡はゆっくり歩いても30分もあればたどれてしまう。それにもかかわらず、総工費は「駅などの建造のために買収した用地、家屋移転補償費などを含めると十五億円を越える巨費が投じられた」(神戸新聞1966年5月15日付)という。ちなみに、1958(昭和33)年に完成した東京タワーの建設費は約30億円だった。
なぜこのような莫大な投資をしたにもかかわらず、姫路モノレールは短期間で姿を消すことになったのか。理由は、巨額の初期投資に加え、開業後の利用低迷である。博覧会の会期中こそ盛況だったが、閉会後の72日間の乗客は1日平均938人。1日に3,460人乗れば収支が見合うとの試算だったが、その3分の1にも満たない数字である。
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モノレール手柄山駅の地上部分。当時の建物は取り壊され、現在は別な建物になっている(提供 : 姫路市)
開業翌年の1967(昭和42)年4月に実施された姫路市長選挙では、モノレールが「論戦の最大焦点」(神戸新聞1967年10月25日付)となった。石見は6期目をめざして出馬したものの、革新系の吉田豊信に大差で敗れた。モノレールは、市民の間でも不評だったのだ。
こうしてモノレール延伸の夢は断たれ、短小路線のまま営業が続けられたものの、利用者数はその後も低迷し続けた。開業初年の1966(昭和41)年度こそ40万2,967人の利用があったが、1968(昭和43)年度には24万5,718人まで落ち込み、以後は20万人台の低空飛行を続けた。当初見込んでいた年間利用者126万人には遠く及ばなかった。
この間、毎年1億円以上の損失を出し続け、開業5年後の1971(昭和46)年度時点で累積欠損金は約7.5億円、運行を休止した1974(昭和49)年度には11.4億円にも達した。
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姫路モノレール保存車両。製造は川崎航空機が担当。軽量化のためボディーにはアルミ合金が使用され、航空機製造の技術を生かしたセミモノコック構造が取り入れられている(筆者撮影)
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モノレール展示車両の車内。「未来の乗り物」にふさわしいモダンな造りだ(筆者撮影)
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展示車両の運転台(筆者撮影)
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設計最高速度は120km/hだったが、路線が短いこともあり、実際には「10」「30」「50」の現示信号に従って走行した(筆者撮影)
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手柄山交流ステーションに設置されている姫路モノレール時刻表(筆者撮影)
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車体下部のスカートを跳ね上げると現れる下部安定輪。軌道を挟み込み、バランスをとる(特別に許可を得て筆者撮影)
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軌道側面に取り付けられている集電用の第三軌条(特別に許可を得て筆者撮影)
さらに追い打ちをかけたのが、各メーカーの仕様が乱立気味であったモノレールの規格統一の動きだった。日本モノレール協会の研究により、跨座型モノレールについては、アルヴェーグ式の改良型である日本跨座式(床面を高くし、客室内の床をフラットにした)が都市モノレールの標準仕様として採択されることになった。
この結果、販路を失った日本ロッキード社はモノレール事業からの撤退を余儀なくされ、「設計図を引き継いだ川崎重工も簡単には部品をつくれない」(神戸新聞1974年10月21日付)ことから、姫路モノレールは部品調達もままならなくなった。こうした複数の要因から、早期に休止・廃止されることになったのである。
だが皮肉なことに、1972(昭和47)年にモノレールを都市計画道路上に建設し、建設費の一部を道路会計から国庫補助する都市モノレール法が施行されると、その後、北九州、千葉、大阪、多摩(東京)、沖縄で同法にもとづく都市モノレールが建設され、現在も活躍している。姫路モノレールは、あまりにも時代を先取りしすぎたのだ。