BLANKEY JET CITY×THEE MICHELLE GUN ELEPHANT特集|ロックシーンに衝撃を与えた2バンドの爪痕

明治学院大学のバンドサークル「ソング・ライツ」内にて結成

浅井健一(Vo, G)、照井利幸(B)、中村達也(Dr)によって東京で結成

TBSテレビ「イカ天」にて「第6代目グランドイカ天キング」を獲得

初の全国ツアー「Live Strangler」を開催


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4月20日4thシングル「青い花」リリース

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5月25日5thアルバム「幸せの鐘が鳴り響き僕はただ悲しいふりをする」リリース

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ホール、ライブハウスを回るツアー「スージーの青春」スタート

6月26日NHKホール公演の模様を収録したビデオ「Angel Fish」をインディーズレーベルより発表

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9月7日5thシングル「風になるまで」リリース

9月28日ライブビデオ「Monkey Strip」リリース

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1995

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1月25日6thシングル「Girl / 自由」リリース

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3月1日初のベストアルバム「The SIX」リリース

各メンバープロデュースによるライブ「DEAD PINOCCHIO'S PARTY」を3日間にわたって日清パワーステーションにて行う。

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8月26日代々木公園野外ステージにてフリーライブ「Are You Happy?」開催

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10月21日ミニアルバム「wonder style」をリリース

10月25日7thシングル「くちづけ」リリース

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11月22日7thアルバム「SKUNK」リリース

ライブツアー「Dynamite Pussy Cats」開催

ライブツアー「wonder style tour」スタート

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12月13日ライブビデオ「Are You Happy?」リリース

12月26日結成5周年記念ライブ「Dynamite Pussy Cats」を日本武道館で開催

バンドブームのさなかでは、たとえメジャーでデビューすることが決まっていても、その前にインディーズリリースで実績を積み、箔を付けることがよくあった。いきなりメジャーデビューするよりもインディーズ叩き上げのバンドのほうがホンモノだ、という幻想が業界内にあったからだ。だがブランキーにはそんな小細工はまったく必要なかった。演奏のすごさはもちろん、メンバーがそこにいるだけで漂うタダモノでない雰囲気と強烈な存在感。それまでのバンドブームデビュー組がことごとく子供じみて見えるほどに、彼らは別格だった。全身にタトゥーの入ったガラの悪そうな3人は、どこか繊細で壊れそうな、見る者の目を惹き付けてやまないフォトジェニックな魅力にもあふれていた。デビュー前の、一般にはまだ無名のバンドが山本耀司のパリコレクションのモデルを務めるという異例の展開は、彼らがそれまでのロックバンドとはまったく異質の存在だったことを示している。もちろんそこには東芝EMIスタッフの緻密なプロモーションプランがあったが、彼らはそうした業界的な枠組みにちんまり納まるようなバンドではなかった。

デビューアルバム「Red Guitar And The Truth」はロンドンでレコーディングされた。「イカ天」で演奏された曲を中心とした全10曲は、すべてアマチュア時代からのレパートリーであり、初期ブランキーの魅力を存分に伝えるものだった。プロデュースは当初、The ClashやThe Pretendersを手がけたビル・プライスの予定だったが条件が折り合わず、彼のアシスタントだったジェレミー・グリーンが抜擢された。だがこれが裏目に出た。ジェレミーとブランキーの相性は最悪で、メンバーの提案はすべて却下、無意味なリテイクの繰り返しでバンドは消耗し、レコーディングは最悪の雰囲気だったとディレクター井ノ口氏は証言する。のちに浅井は、「あのロンドンレコーディングでブランキーは一度終わってる」という意味のことを言っていたが、自分たちの魂を込め手塩にかけた楽曲を自分たちの思うように形にできなかった悔いは彼らの中に残り続けた。

次作「BANG!」ではプロデューサーに土屋昌巳を起用。土屋は自らのバンド一風堂での活動のあとソロに転じ、プロデューサーとしてはTHE MODS、THE WILLARDらを手がけていた。土屋はブランキーに彼の思い描くロックバンドの理想を見出し、ブランキーは土屋の経験とノウハウ、そして情熱を全面的に信じて、両者は深い信頼関係に結ばれた。

筆者はデビュー前から何度もブランキーを取材する機会があったが、彼らが「BANG!」のロンドンレコーディングから帰国してすぐ行われた「死神のサングラス」ツアーの渋谷公会堂でのライブはいまだに忘れがたく、強烈な記憶として残っている。凍り付いたような緊張感と沈黙。演奏が終わっても客席からは拍手も歓声もない。あまりのすごさにどう反応していいのかわからず、黙り込むしかなかったのだ。あとにも先にも、そんなライブはこの時期のブランキーしか知らない。その後聴いた「BANG!」の試聴用カセットの衝撃と感動も忘れがたい。サウンドも、演奏も、ジャケットデザインも、1stアルバムとはまったく異なっていた。1stアルバムに残っていたロカビリーやネオサイケデリックなどの要素を削ぎ落とし、ブランキーのロックンロールの核だけを抽出して研ぎ澄ませたような激しく狂おしく美しいアルバム。「イカ天」で初めて彼らの音楽を聴いたときの衝撃が、作品としてやっと形になったという鮮烈な実感があった。「Red Guitar And The Truth」のレコーディングの失敗で危機感を持った彼らが、バンド運営にまつわる主導権を自分たちで取り戻した結果でもあったと、個人的には感じている。

「BANG!」まででアマチュア時代から書き溜めたレパートリーを吐き出した彼らは、初めてレコーディングのための曲作りを求められることになる。どんなバンドでも一度は通る道だが、彼らは見事にクリアした。それまで浅井の作る楽曲はすべて彼自身の実体験に基づくものだったが、以降の楽曲はある種の映画や小説のように架空のシチュエーションを設定し自由にストーリーを語っていくというスタイルに移行していく。また演奏も、初期の頃は明らかに中村のパワフルなプレイにバンド全体が引っ張られている感があったが、徐々に3人のバランスがとれるようになる。演奏面でもアレンジ面でものちにつながるブランキーらしさが確立されたのが3作目「C.B.Jim」だったと言えるだろう。

デビューから3年間でミニを含めアルバム5枚という強行スケジュールの過程でブランキーは急激にバンドとして成長・進化し成熟しつつあったが、その一方でバンド内部には常に一触即発の雰囲気があったという。最大の危機は6枚目のアルバム「SKUNK」制作直後に訪れた。ロンドンでの録音終了後メンバーは一旦バンドの解散を決める。帰国後に行った代々木公園野外ステージでのフリーライブに手応えを感じ、解散は回避されたが、それまでも解散の話は何度も出ていたという。ブランキーにとってバンド活動とは常にメンバー同士の食うか食われるかの闘争であって、決して仲良しこよしのベタついた友情ごっこでも、ビジネスとして割り切ったドライな関係でもなかったからだ。

一方、クハラとウエノの参加でようやくバンドとしての体制が固まったミッシェルは、都内のライブハウスに出演するようになる。1991年から92年にかけて下北沢や渋谷を中心に精力的にライブ活動を展開。だが、なかなか動員は増えなかった。当時(1991年)のライブ音源をクハラに聴かせてもらったことがあるが、のちのチバらしいボーカルスタイルの片鱗は聴けるものの、誤解を恐れずに言えばバンドブーム期に流行ったビートパンクに近い性急でポップなパンクスタイルは、これといった個性に欠けていた。おそらくそのままでは彼らがブレイクするのは難しかっただろう。この頃の曲であとまでレパートリーに残った曲は1つもないようだ。「ソングライツ」の先輩だった佐藤伸治が結成したフィッシュマンズは1991年にメジャーデビューしているが、ミッシェルにとっては遠い世界の出来事に思えたかもしれない。

ところがチバはあるとき、英国のパブロックバンドDr. Feelgoodの存在を知り、一気にのめり込む。「なんでこんなにスッカスカの音なのに、こんなにカッコいいんだろう」と衝撃を受けたという。7thコードとシャッフルのビートの魅力に目覚め、その影響でミッシェルの音楽はどんどんシンプルに、グルーヴィになっていった。パンクロックやガレージパンク、60年代のブリティッシュビート、パブロックなどからの影響を飲み込んで、我々の知るミッシェル独自のスタイルが次第に確立されていく。以前その頃のライブテープも聴かせてもらったが、直線的に突っ走るだけの1991年頃のサウンドに比べリズムの感じも曲調も大きく変わっていた。94年に元Dr. Feelgoodのウィルコ・ジョンソンの来日公演にサポートで出演する頃には、すでにチバは自分のやりたいことをしっかりとつかんでいたが、それを実際にバンドの音として実現するためには、最後の1ピースが必要だった。それがアベフトシ(G / 1966年生まれ)である。1994年6月のアベの加入で、ミッシェルの音は完全に固まった。

バンドブームは去り、ライブハウスには閑古鳥が鳴いていたが、アベが加入したミッシェルはライブのたびに動員を伸ばしていく。同じ時期にやはり急激に突出しつつあったのがHi-STANDARDである。ミッシェルのメンバーは1995年に現在のマネージャーとも出会い、ついにデビューへのきっかけをつかんだ。結成から7年、本格的に活動を開始してから5年が過ぎようとしていた。

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