沖縄に147カ所の日本軍慰安所 激しい地上戦、女性たちはどこへ
毎日新聞 2025/6/21 07:00(最終更新 6/21 07:00) 有料記事 1968文字
裴奉奇さんが連れてこられた渡嘉敷島にある、朝鮮人を追悼する「アリラン慰霊のモニュメント」。渦をイメージし、1997年に建てられた=沖縄県渡嘉敷村で2025年6月19日、喜屋武真之介撮影
沖縄県に日本軍が本格配備されたのは第二次世界大戦中の1944年3月、米軍との地上戦が始まる約1年前だった。日本軍は離島を含め、県内各地で飛行場建設を進めるとともに、周囲に兵士向けの「慰安所」を作った。
その数は判明した分だけで147カ所あり、主に朝鮮や沖縄の女性がいたとされる。
しかし、戦後、自身の体験を明かす人はほぼ皆無で、激しい地上戦の中での慰安婦たちの生死やその後はほとんど分かっていない。
・この連載は3回続きです。 ・第1回 「どうして皆死んだか」斬り込み、生き埋め...つづった友の最期 ・第2回 沖縄に147カ所の日本軍慰安所 激しい地上戦、女性たちはどこへ
・第3回 眠り続ける証言テープ 読谷村の引き出しに 記者の大叔父の体験談も(22日午前7時公開予定)
91年10月、那覇市のアパートで一人の女性が病死しているのが見つかった。裴奉奇(ペポンギ)さん(当時77歳)。
朝鮮半島出身で、かつて日本軍の慰安婦だった。
ノンフィクション作家の川田文子さん(故人)は87年に出版した「赤瓦の家」で、裴さんらへの取材に基づき、その半生を記している。
同書によると、裴さんは44年に朝鮮から門司市(現・北九州市)や鹿児島を経由して沖縄に連れてこられ、沖縄本島の西にある渡嘉敷島の慰安所に送られた。慰安所には他にも6人の朝鮮半島出身の女性がおり、日本兵の性行為の相手をさせられた。
45年3月27日に米軍が島に上陸。裴さんは山中に逃げ込み、日本軍部隊とともに身を潜めた。
45年8月下旬になって米軍に投降し、沖縄本島の収容所へ。慰安婦のうち1人は米軍の攻撃で亡くなったとみられ、もう1人は収容所で行動を共にした…